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社説・コラム

『想』 仙田信吾(せんだ・しんご) 漫画で語り継ぐ復興

 40年来の友人、高橋博史アフガニスタン大使は、紛争当事国のリーダーを広島に案内し、再起への自信を持たせようと努力している。しかし復興の足取りを学ぶ教科書がないという。

 そこから「まんがで語りつぐ広島の復興」が生まれた。中国放送が原案、手塚プロが作画し、小学館から昨夏出版。この春英語版が完成し、10、11日に広島市で開かれる外相会合出席者への贈呈が決まった。

 原爆の惨禍が凄絶(せいぜつ)すぎて、生き残った人々は復興を言挙げして語ってはこなかった。しかし先人の先見性、知恵が随所にあったからこそ復興を成し遂げたことを、制作の過程で知った。

 被爆当日から炊き出しできたのは、都市空襲に国民学校単位での対応では無理だと、周辺町村からの支援体制を整えていたから。行員半数が即死した日本銀行広島支店大金庫の紙幣などが燃えなかったのは、大きな瓶(かめ)にためた水が瞬時に蒸発して守るようにしていたからだった。

 気力と責任感と公共心は、すごいとしか言いようがない。

 第一生命の菊島奕仙(えきせん)支社長は終戦の日から己斐(西区)のバラックで、加入者の申し立て通りの保険金額を署名と母印だけで3千件以上支払った。広島ガスの田村興造社長が、第一生命の非売品の本から探し当てた。菊島氏は出張先で無事だったものの、妻ら家族4人は原爆で即死。悲しみを乗り越えての陣頭指揮だったと墓碑の記述から分かった。

 工場の多くが鍋釜から製造再開したのに、東洋工業(現マツダ)はいきなりオート三輪を目指した。幅100メートルの平和大通り実現は壮大なロマンだった。平和都市建設法制定では占領軍と対峙(たいじ)した。高校の恩師藤井正一さんには、海外からの支援について貴重な助言をもらった。

 能美島生まれの特攻隊生き残り、にしき堂の大谷照三さんが、もみじまんじゅうで一旗揚げるまでも描いた。病床で莞爾(かんじ)とした笑みを浮かべて最終ゲラをご覧になり、間もなく逝去されたと聞いた。被爆から70年の時の流れを感じた。(中国放送常務)

(2016年4月8日中国新聞セレクト掲載)

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