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社説・コラム

『想』 石田尊昭(いしだ・たかあき) 憲政の父・尾崎に学ぶ

 1960年、尾崎行雄記念財団が憲政の父・尾崎行雄の理念と業績を伝えるため、国会議事堂の向かい側に尾崎記念会館を建設し、衆議院に寄贈した。その後、規模を拡大し現在の憲政記念館となったが、議事堂に向かって凜(りん)と立つ尾崎の銅像は当時のままだ。

 彼は日本の政党について、主義・政策ではなく過去のしがらみや利害・感情で結びつき、道理ではなく力を重んじ、国家国民のための政策論争をしていないと批判した。約70年前の指摘が今に通じるとすれば悲劇だ。また尾崎は、権力に従順な国民性と、選挙の投票で「頼まれたから、金をくれたから」入れるという有権者の態度も厳しく批判した。「腐った水にボウフラがわくように、腐った選挙からは自堕落政治のボウフラがわく」と。

 尾崎は1920年代から第2次大戦まで一貫して軍縮を唱え、戦後は世界連邦の建設を呼びかけた平和主義者としても知られる。だが尾崎を非武装・非暴力の理想主義者と捉えるのは早計だ。彼が軍縮論者となったのは第1次大戦後からだが、それは当時、世界が軍縮の方向に進む中、日本だけが軍拡をするのは得策ではなく、財政的負担も大きいと考えたからだ。

 第2次大戦においても、世界情勢と国力を冷静に分析した上で、無謀な戦争はやめるべきだと主張した。そして広島と長崎に投下された原爆の威力を見て、次に大戦が起これば人類が滅ぶと確信した尾崎は、国家間の対立と軍拡競争を防ぐ具体的方策として世界連邦を提唱した。いずれも日本と世界の存続のために、その時点で採り得る最善の手段を追求したものと言える。

 権力にも大衆にも迎合せず、政治家と有権者の双方に自覚を求め、また内外の現状を的確に把握し、現実的かつ世界的視点で日本の方向性を示した尾崎から学ぶべきことは多い。広島で生まれ育ち、今は亡き祖母から原爆の凄惨(せいさん)さを教えられた私は日々、尾崎から多くの刺激を受けている。(尾崎行雄記念財団理事兼事務局長)

(2018年7月29日中国新聞セレクト掲載)

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