×

社説・コラム

『想』 山田玲子(やまだ・れいこ) 被爆者活動半世紀

 11歳の時、現在の広島市西区で被爆した私は長い間、体験を語ることができなかった。ようやく話せるようになったのは35歳の頃である。それからは85歳の今日まで半世紀、証言活動や被爆者相談事業、核兵器廃絶の訴えに全力で取り組んできた。何かに強く突き動かされてきたような半世紀だった。

 現在の己斐小5年だった私はあの日、爆心地から2・5キロの運動場にいた。火の海となった中心部からは大やけどを負って、人間とは思えない姿に変わり果てた人々が次々と逃げて来た。その多くが苦しみながら息を引き取った。遺体は運動場に集められては焼かれた。異臭と黒い煙が一帯に漂った。

 翌年、食糧難対策で運動場にサツマイモが植えられた。収穫の時期になるとみんなでイモを掘った。だが土を掘り起こすたびに遺骨が一緒に出てきて、みんな悲鳴を上げた。イモは昼食に出されたが、誰も食べなかった。そんな体験を私は話す気にはならなかった。

 中学と高校、そして大学1年まで7年を過ごした広島女学院は、打って変わって自由で明るい日々だった。宣教師と共に孤児院や病院を訪問した奉仕活動は、私に愛と平和の尊さを教えてくれた。35歳の頃から証言できるようになった私は、次第に積極的になった。2010年には己斐小の運動場に、原爆犠牲者を追悼する碑を設けた。私が発案し、地元の人々が賛同してくださったのだ。

 1985年に初めて英国を訪れてからは、海外での証言活動にも取り組んだ。これまでに海外を訪れたのは35回。米国では「そんなにひどい目に遭って、復讐(ふくしゅう)しようとは思わなかったのですか」と質問した高校生がいた。私は答えた。「報復は連鎖反応を呼び、もっとひどいことになる。私は世界の誰もあんな目に遭わせたくないのです」

 半世紀もの間、私を突き動かしてきたもの。それは遺体を次々に焼いたあの悲惨な光景と、広島女学院時代の奉仕活動によって学んだ愛と平和の尊さだと、私は確信している。(東京都被爆者団体協議会副会長)

(2019年5月26日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ