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社説・コラム

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十一)映画解説者列伝(その3)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 八丁堀のもと東洋座は、大正末期から昭和七、八年頃まで、松竹映画の時代モノ、現代モノ、洋モノの別なく、そのコナシ方を心得た白藤愛光があり、青年組には峰一路、相良健、滝口俊、生流恭美などがあるが、これらはほとんど故人になっているという。現代モノの解説で、特に女性間に人気のあった川路健は、竹田清一、愛光たちと総合文芸雑誌「黒点」を発行し、発声映画後上京して純文学の道に入り、作家長崎謙一郎となっているのは、レツデン中での例外である。「黒点」のカットは、山路商がかいたようである。

 同じ頃太陽館には中村来恩があり、いつも和服姿で右肩を心持ちつりあげての解説ブリは、颯爽(さっそう)たるライオンではなかった。一本の映画を片ヅケるに、必らず「さいながらにして」という言葉を、しばしば繰り返すのがクセで、後に中島の喜楽館の経営者となったがピカ前病没した。

 三村珍文も来恩と同時代の男で喜劇モノが得意で、丸坊主頭のいでたちから、ベン士仲間で仙人扱いにされていた。間もなく大阪、京都に現れて「漫談家」として売り出し「まんだん」とはコンなものであると、漫談を最初に広島へショウカイしたのは珍文である。ライオンとかチンブンとかいう名前だけでも、無声映画時代相がよく現れていて、それだけに古い話にもなるわけである。

 いま一人の竹田清一は新国劇の沢田正二郎そっくりの風ボウで、現代モノを得意としたが、カイギャクと皮肉を混ぜての解説がミソである。だれよりも好感のもてたのは、大向うをねらった野心的表現がなかったことであるが、時にダジャレが過ぎて、おかみさんたちを面食らわせていた。平塚の色まちに住んで舞踊名手の愛妻と、黒点座公演の記録もある。風の便りに、錦帯橋の岩国で健在だとのことである。

 彼の流れを汲む田坂喬花は、昭和シネマ時代「西部戦線異状なし」をこなして、男をあげたが、最近のヒロシマで時々、元気な顔を見かける。

 解説者レツデンも、そのほとんどが故人となっているあたり、そぞろ淡い感傷を呼ぶが、発声映画時代に次ぐものには、ニュース映画館として、本通りに松竹ハウスや、流川筋にときわ館が出来、昔の魚市場中の棚に高千穂館が出現。戦争―ピカドン―終戦―原子砂漠―新映画館の再現と、目まぐるしい世の移り変りを見るにつけ、斯(しばら)くは四十年間の映画と、広島盛り場のつながりを書き留めた次第である。

(2016年3月27日中国新聞セレクト掲載)

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