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社説・コラム

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十二)歌舞伎年代記(その1)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 広島での盛り場記録となると、もろもろの芝居興行も、ユメの一役を果しているようである。といっても、二十年も前に発表した宮島や広島の両年代記のようなモノは書けない。あの両年代記は革屋町長崎屋秘蔵の芝居番付、数百枚から取りまとめたもので、今や一切が灰となってしまった。

 広島出身の坂東秀調が、明治初期、江波、船越両中座の座頭を勤めたことや「広島蒙求」に見られる五日市事件の「人斬り勘四郎」劇が大当りであったなど、そのかみの夢またユメの盛り場はとも角として、殆(ほと)んどが故人となっている三十年来の、歌舞伎のおとづれをひろってみよう。

 十日市町の新地座で上方大名題が打ったことは、語り草とはなっているが、判然としたモノはつかめない。矢張りたたみや町寿座での興行記録が、広島でのすべてである。寿座といえば、西部花街の中心となったもので、大歌舞伎が打たれた時の、本新両券番の力の入れ方は大したもので、その夜の芝居のハネ太鼓が鳴らねば、あたりから三味の音も、聞かれなかったと極言してよい程(ほど)であった。

 最も広島人にうけた役者は上方連中で、東京歌舞伎のほとんどは高師演劇研究会の支持をうけたようである。

 後の場合の例は、自由劇場以来の市川左団次が、大正四、五年頃岡本綺堂モノの「修善寺物語」を持っての来演が好評で、更に大正九年暮であったか「増補信長記」「今様さつま歌」の五大力に、寿美蔵、松鳶、左升、荒次郎一門に新内の佐賀太夫を引き連れての熱演には、花柳界のちからの入れ方も、なかなかであった。

 同じ頃、松本幸四郎、沢村宗之助のコンビでは、山本有三の「嬰児(えいじ)殺し」が珍らしがられた時代で券番の姐(ねえ)サンたちが手ばなしで泣かされた。型物では宗之助の政岡幸四郎の仁木弾正で「先代萩」も大ウケであったが、同じ高師演劇研究会の合同観劇で賑(にぎ)わったのは先々代片岡仁左衛門の「名工柿右衛門」がある。

 のちに大正十四年であったか我童を連れての「さくら時雨」、広島では珍しい「曾我対面」の工藤を勤めたり、我童の持役木村長門守の血判取りに家康をつき合い、我童の「かぶと軍記」阿古屋の三曲弾き分けは、東西三券番の姐サンたちを湧き立たせたもので小屋前の飾り物や役者幟(のぼり)のある、和やかなたたみや町風景が思い出される。「さくら時雨」で、アホウ役の千代之助が、のちの片岡我当の片リンすら見られなかった頃のことである。

(2016年4月3日中国新聞セレクト掲載)

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