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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十二)歌舞伎年代記(その2)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 東京役者では、今の訥子(とっし)が沢村伝次郎時代、小猿七之助を持って寿座に現れたのが、同じ大正十四年ころで、猛優といわれた先代沢村訥子が、同じ舞台での中山安兵衛で、評判どおりあの花道での引込みを、三足半で飛ばしたのも、確かにその前年あたりで、同じ変った役者では、大阪の尾上卯三郎が、得意の「弥作の鎌腹」を売りものに現れたのも、そのころであった。

 大正十二年関東大震災で、東京を焼け出された守田勘弥が、十一月目には文芸座を引きつれて、寿座の舞台を踏んだ。彼の来演はこの一回限りで、帝劇を根城とした新劇運動には、すでに定評のあった役者だけに、四日間の興行で菊池寛の「忠直卿行状記」「恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)へ」武者小路実篤の「ある日の一休」近松モノの「女殺油地獄」が上演されて、これまた連日の大入りを取った。所作事「三人片輪」では、阪東しうか(今の勘弥)に花を持たせて達者なところを見せ、番付面に無かった帝劇からの、初瀬浪子、藤間房子の参加で、一座の色どりを華やかなモノにした。

 何分にも帝劇女優といえば別の人種のように思われた頃のことである。とくに印象に残る彼の演技では、忠直卿の気品ある動きと、激しい発声法、一休での淡々たる味わいは、凡(およ)そ従来の歌舞伎役者では、想像もされなかった限界での振舞いであり、一行の林和氏と共に高師講堂での「演劇講演会」に講師として、凡そ一時間に亘(わた)る新劇論で学生たちの拍手を受けたのも、空前絶後の歌舞伎人振りであった。

 中村吉右衛門も、大正七、八年頃、清正モノを二度も持って現れた。更に昭和七、八年頃、沢村源之助、中村時蔵たちと「石切梶原」「かご釣瓶」などで来演したが殆(ほと)んど真夏の興行でありながら満員札止の盛況であった。しかし同じ頃「御所五郎蔵」を持った市村羽左衛門は、アッサリ演出のセイでか一向に不人気で、実川延若とともに、劇場側からは、そろばんの持てない興行モノとされていたようである。最も、これらは夏枯れに地方を稼ぐ興行だけに、流石(さすが)の広島人も馴染(なじ)みの薄い役者へは、足を運ぼうとはしなかった。

 然(しか)し尾上梅幸、松本幸四郎たちの、大正九年の来演は大人気で、御両人の「茨木」は圧巻であり、幸四郎は藤間流の家元だけに花街の肩入れもあり、「スホウ落し」は大ウケで、二十七歳の若さで倒れた梅幸の長男栄三郎の「加賀見山」でのお初や、角兵衛獅子での鳥追い姿は、まだ二十一歳の花ざかりであり、同じように急逝した次男、泰次郎の踊り姿も忘れられない。

(2016年4月10日中国新聞セレクト掲載)

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