×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十二)歌舞伎年代記(その3)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 沢村宗十郎、阪東秀調、市川中車らの来演もあったが、坂東三津五郎は踊りの名手として、いつも一幕をかっさらっていただけに高麗屋とは別の人気を、今もってつづけている。また尾上菊五郎の来演は、昭和九年の夏しか知らないが、この時は市川宗家の三升と「土蜘蛛」「大蔵卿」「暗やみ丑松」を上演している。もっとも大正末期に彦三郎たちとの来演で、「菅原」の車曳(ひ)きから寺小屋までを見せて六代目の松王に三津五郎の源蔵だったような記憶もある。

 広島でだれよりも人気のあった役者は、中村雁治郎であった。彼の来演はいつも大当りで、それこそ老いも若きも、東西両花街をあげての声援が、最後の昭和九年の寿座公演までつづけられた。八年ごろから、おそらくは高齢な彼の最後の舞台であろうといわれながら、二度までもお目見得している。昭和二年、八丁堀歌舞伎座のこけら落しも、寿座主高徳への義理合いで、立派に「だんまり」の袈裟(けさ)太郎をつとめている。これは所詮(しょせん)、広島へのひいきに応えた雁治郎の心意気で、九年、七十四歳最後の舞台にも持って来た「土屋主税」はそれまでに数回も寿座で上演している。一座の福助、魁車、箱登羅、吉三郎、せがれ長三郎、むすめ芳子らとの水入らずの来演では「藤十郎の恋」「盛綱」得意の治兵衛、伊左衛門、半兵衛などで、ますます広島での足場をかためた。

 終戦後、横川旭劇場に現れた先代襲名前の翫雀が「広島での舞台では、花道にかかっての見得の最中、親父さんによろしゅうといわれまして、ホロリとさせられました」と、亡父を偲(しの)んでいたが、扇雀時代の彼への人気はおやじさんへの好意がそのまま反映していた。

 忘れられないのは、昭和五、六年頃、幸四郎との合同で、六左衛門をうしろにしての「勧進帳」がある。幸四郎の弁慶、雁治郎の富樫、福助の義経で、これは寿座年代記中での圧巻である。この時、浅野の老殿様が一族郎党を引きつれて、花モウセンでの総見振りが思い出される。

 一方、寿座では不入りの実川延若も、新天座が籠寅の経営になってからは、この舞台で上演した「盛綱」「宿無団七」「慶安太平記」の忠弥などが、大ウケであった。歌舞伎座では、寿三郎、我童、霞仙の「安宅」が上演されて、FKは昭和三年十一月十四日、この舞台実況を初放送した。また大阪文楽座が、紋下津太夫、土佐太夫、古うつぼ太夫、糸の道八、人形の栄三、文五郎の名人連で、たびたび来演しているのも書き落してはならない。

(2016年4月17日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ