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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十三)新しい芝居(その1)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 寿座の廊下から天井ウラ近くまで、勘亭流で書かれた上演番付額が、掛けられているのを知っている人は多いであろう。これらは広島での芝居記録として貴重なもので、筆者も、いずれは寿座年代記をと思いながら、ツイに実現しなかった。

 おぼろ気ながら、当時の番付額が思い出されるのは、川上音二郎が二度目の外遊後、新帰朝公演をこの舞台で打った記録である。明治三十九年と書いてあったように思うが、ヨーロッパ地図を色刷りにして、その巡演コースや川上貞奴の文字が大きく書かれてあった。しかし狂言だての記憶はナイ。そのトナリに曾我廼家五郎、十郎の額も掛っていたが、これは明治四十年(一九〇七年)の来演であろう。

 先頃井上正夫がものした「化けそこねた狸(たぬき)」で、明治三十四年七月彼が二十一歳で、広島のお酌ぽん太との初恋記録を書いているが、小織圭一郎もこの土地の盛り場とは、断ちガタイつながりがあったようである。

 大正初期には新派の大御所高田実が、得意の荒尾譲介をこの舞台で観(み)せているし、山崎長之輔の成美団、秋月桂太郎、藤沢恒造らの名前もへん額で読んだような気がする。

 新派でハッキリしているのは、大正十年の暮であったか、伊井蓉峰、河合武雄、喜多村緑郎、福島清、石川新水、元安豊、小堀誠、英太郎、藤井六輔(彼は羽田カゲキで虎の役をつとめて知られている)たちの顔ブレで「真珠夫人」、神田伯山口演の「清水次郎長」を出した。伊井は荒神山の吉良仁吉、二役次郎長の熱演を観せて呉(く)れたが、だれであったか若手の役者が台詞をトチッて、一幕を台ナシにしたことがある。

 これだけの顔が揃(そろ)ったのはこれがはじめてでのち昭和八年であったか同じ舞台に、故人の伊井が抜けて河合、喜多村が後見役となり、梅島昇、花柳章太郎の「女系図」「二筋道」での来演が思い出される。新派といえば大正八年新天座創生以来の大阪陣の来演は前稿どおりで、本筋新派のほとんどは、寿座の舞台と決められていた。

 ―ついでながら大正初期以来の劇評のほとんどは、中国紙の西川芳渓氏が書き、演芸画報が募集した中村歌右衛門のための懸賞脚本に「女大蔵宮島絵巻」が入選して、東京の檜(ひのき)舞台を飾ったのもこの頃で、後期には芸備紙の法安雅次君の劇評がモノを言い、またその頃の好劇家たちで、芝居狂言にちなんだ手料理重詰コンクールがあったなどといっても、戦後派の人たちには想像もつかないことであろう。

(2016年4月24日中国新聞セレクト掲載)

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