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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十三)新しい芝居(その3)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 新国劇の広島最初の来演は大正九(一九二〇)年の暮であったような気がする。新聞折込み広告に、新国劇スイセンの坪内先生の文章が綴(つづ)ってあり、相合傘の幕末武士と半玉の写真が刷り込まれていた。これがほかならぬ沢田正二郎の「月形半平太」で、寿座の舞台を見た友人が、大乗院での物凄(ものすご)い剣ゲキは圧倒的であると言い見物は平士間半分も無かったとつけ加えた。とに角「これまで見たことのない無茶(むちゃ)な芝居である」ことを強調したが、筆者はこの初演を見逃した。沢田の初来演は二十九歳の計算になる。

 二年後の十一年であったか「国定忠治」のとおしに、「冬木心中」「月光の下に」を九州の帰途上演している。更(さら)に十三年の春には、震災前に大当たりをとった行友梨風作「新撰組」に額田六福作「小梶丸」、更に二の替りでは「城山の月」を持っての三度目の寿座来演であるが、「城山の月」が物語るように九州向きの狂言だてであった。

 その後、間もなく金沢での金井謹之助、田中介二らの脱退事件があったやさきとて、この年の新国劇の顔触れは、総メンバーであった訳である。即(すなわ)ち金井謹之助の土方歳三は、沢田の近藤男と共に池田屋斬り込みなど物凄い立回りを見せたが、なにより沢正流の台詞まわしが印象に残っている。野村清一郎の伊東甲子太郎、中井哲の桂小五郎、その他田中介二、上田吉二郎、鬼頭善一郎、広島出身の野添健らである。十一人座から石山健二郎が沢田のテストで、入座したのもこの時で、介添役に法安雅次君が顔を見せている。

 沢田正二郎の寿座での最後の舞台は、昭和三年の秋で、三十八歳の若さで急逝した、その前年に当るワケでだし物は真山青果の「桃中軒雲右衛門」、長谷川伸の「スリの家」、金子洋文の「剣」が並べられ、彼は三狂言とも出っ張りという力演ブリであった。雲右衛門では石山健二郎が広島なるが故にか代議士役で沢田と渡りあうもうけ役を振られていた(この時FKから石山を中心とした新国劇青年部が「父帰る」を放送している)。

 沢田が久松喜世子との雲右衛門では、重厚な舞台を見せたが、「スリの家」では、二人が思いきり明るいはしゃいだ動きを見せていたのも、懐しい想い出である。「剣」はさすがに、立回り役者らしいテンポのある激しい演出で「今度は俺の血だ」と舞台中央でのどをかき切った壮烈なポーズは、写楽の雲母刷絵定九郎を思わすようで、沢田の広島でのさよならポーズでもあった。それにしても、広島での沢田正二郎のエピソードがないのは寂しい。

(2016年5月8日中国新聞セレクト掲載)

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