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[ヒロシマの空白 被爆76年] 「親に会いたい」 原爆孤児の生涯 田中さん 紙芝居に

基町高生が制作 完成直後に訃報

 ろう重複障害者が働くアイラブ作業所(広島市中区)が、市吉島福祉センター(同)で3日に祭りを開いた。原爆孤児として生きた通所者で、7月28日に亡くなった田中正夫さんの体験を伝える紙芝居が披露された。

 被爆時に家族とはぐれて以来、肉親を捜し続けた生涯を基町高(同)の生徒たちが描いた労作。紙芝居をスライドショーにして投影。事前に録音した生徒の朗読を流し、NPO法人広島県手話通訳問題研究会の山口みゆきさん(59)=廿日市市=が手話通訳した。

 新型コロナウイルスの感染防止のため一般公開はせず、関係者約60人が生前の田中さんに思いをはせた。被爆者で通所者の黒川トモエさん(88)は「いつも『両親に会いたい』と言っていた。紙芝居を見ながら涙が出そうになった」と話していた。(湯浅梨奈)

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推定80歳 本名分からぬまま

 物心がつく頃だった76年前に、被爆直後の混乱で家族と離ればなれになった原爆孤児の田中正夫さん。耳が聞こえず、本当の名前と生年月日も知らない。両親はどこに―。切実な思いを抱えたまま「推定80歳」で亡くなった。その生涯を描いた紙芝居が完成し、手元に届く直前のことだった。

 タイトルは「あの日の、奪われた大切なものを探し続けて」。自宅で突然、畳の下敷きになり、はい出ようとして川に落ちたことや、いかだに引き上げられ命拾いした際の状況を12枚の水彩画で丁寧に描く。

 紙芝居の制作は、田中さんが通ったアイラブ作業所の施設長、沖本浩美さん(59)が「田中さんの体験を伝承できないか」と山口みゆきさんに相談したことがきっかけ。山口さんは「子どもも大人も、耳が聞こえる人も聞こえない人にも一緒に見てもらえる」と思い立ち、「原爆の絵」を描いている基町高に相談した。

 2019年冬、創造表現コースの1年生だった岡本実記さん(18)と岡部美遥さん(18)が取り組みを開始した。田中さんと面会し、山口さんの手話通訳を介して下絵を見てもらったり、皆で文章を練ったりした。岡部さんは「音が聞こえず、自分の身に何が起きたのかも分からない不安を表現したかった」、岡本さんは「家族と会えなくなった体験を自分に置き換えて何度も想像した」と話す。

 田中さんは被爆後、比治山国民学校(現比治山小、南区)の戦災孤児収容所で過ごした。石田正己所長(当時)の手記に「高山先生が、この子に『田中正夫』という名をつけて下さった」とある。翌年に広島戦災児育成所(現佐伯区)へ移り、ろう学校卒業後はふすま店で働いた。

 原爆孤児で、聴覚障害者。困難の中を懸命に生き、45歳で結婚。退職後から通ったアイラブ作業所で仲間に囲まれた。紙芝居の中の表情は「いつも明るく、人を笑わせることが好きな田中さんそのまま」と沖本さん。あこがれの俳優・石原裕次郎になりきり、上着を肩から掛けるお決まりのポーズも描かれた。

 だが、完成した紙芝居を山口さんが基町高から受け取って10日余り後、入院中だった田中さんの訃報が届いた。「完成を楽しみにしていた。喜んでほしかった」。告別式の朝、ひつぎの中の安らかな顔に一枚ずつ見せながら、出来上がりを報告した。

 田中さんは毎年8月6日、人波の中から肉親に見つけてもらおうと、平和記念公園を歩き回った。「手話で会話すれば目立つかも」と沖本さんに同行を頼み、2人でひたすら手を動かした。「僕は、今でも『僕』を探しています。お父さん、お母さんに会いたい。会いたい。僕は、探し続けます」。紙芝居の中の言葉だ。

 名前、年齢、家族―。自らの「空白」を埋めることはかなわなかった。それでも前を向いていた田中さんの意思を、紙芝居のせりふはこう表す。「僕はこれからも、田中正夫として生きていきます」。絵と手話と、声を通して生前の思いが受け継がれる。(湯浅梨奈)

(2021年10月12日朝刊掲載)

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