×

社説・コラム

『潮流』 因島空襲と捕虜

■尾道支局長 持田謙二

 戦時中に外国人が日本で体験した事実を知ることで国際理解も深まる。公平な立場で平和について考えてほしい―。英国人捕虜の手記を翻訳した尾道赤レンガの会のメンバー南沢満雄さん(79)の言葉が響いた。国や軍、市民など、立場によって戦争への見方は違うと思うが、相手国にまで広げるとさらに複雑になる。何が間違っていたのか。考え続けたい。

 その手記は、尾道市因島にあった捕虜収容所で生活し、当時の日立造船因島工場で作業中に空襲を受けた英国人テレンス・ケリー氏の「地獄船で広島へ」。日本の占領下にあったジャワ島から、輸送船で4週間かけて運ばれた因島に3年近くいた。

 船の衛生状態は悪く、病気で死亡する人が相次ぐ。約200人がいた収容所でも、病気を押しての労働で亡くなる人もいたという。

 因島空襲があった1945年7月28日は警報もなく、いきなり爆撃が始まった。飛行機のエンジン音や機関銃、機関砲の音が交錯する中、捕虜、日本人とも外に出ようと走った、とつづる。味方の攻撃で命を落とす可能性もあった。

 民家にも被害が及んだ因島空襲。「100人以上が亡くなった」とする証言もあるが、公的な資料でほとんど触れられていないため、被害の全容は分かっていない。爆撃の先に、外国人捕虜がいたことを知る人も多くはない。

 著者は98年に英国の派遣団の一員として広島市を訪れた。原爆により多くの市民が犠牲になった悲惨さも受け止めながら、「日本との和解は、捕虜となった者にとってはそれほど単純ではない」と書く。

 尾道赤レンガの会は元捕虜の関係者と交流を続けている。南沢さんは「事実を尊重し、相手の見方を素直に聞くことが、互いに理解する第一歩」と話す。胸にとどめたい。

(2021年10月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ