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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十四)新劇の記録(その1)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 広島での新劇の記録は大正四(一九一五)年の夏、芸術座がトルストイの「復活」をもって、たたみや町に現れた時にはじまる。

 芸術座としては、同じ「復活」で、その前年東北、北海道を回っているだけに、二度目の旅興行であるが、松井須磨子の「カチューシャ可愛(かわ)いや」の唄は、レコードで革屋町あたりの店に出ていたし、立花、関根の日活モノが太陽館で上映され、一方では、毎夜のように八丁堀の街角に現れた艶歌(えんか)師たちによって、この唄が繰り返された。

 流石(さすが)にカチューシャの宣伝ヨロシキを得てか、寿座前は列をつくる盛況さで、トルストイはとも角(かく)、全国を唄でフウビした女優松井須磨子にミセられた観客で満員となった。何分にも二年来手がけた彼女の持ち役だけに、おててを叩(たた)いての「別れのつらさ」のポーズは須磨子ファンに多大の感銘をあたえたらしく、閉場後、新大橋にかかった若い男女達が、期せずして幼稚園の先生よろしく、両手を開いて、これを叩きながらカチューシャ可愛いやを唄って渡ったという。(まさかと言うナカレ。あの歌は手を叩かないと唄えぬという生理ゲンショウがまつわっている)

 広島市内本通りの化粧品店のウインドウに飾られたカチューシャの舞台写真は、子供たちの心をかきたたせただけに、彼女の罪業はナミナミならぬものであった。須磨子の演技の巧拙判定は、それまで女優の芝居を見たことのない広島人には、ナンともいえぬというのが本当らしく、川上貞奴ほど色気がないが芸術的であったという批評は、まさに適評であったらしい。この時、同時に上演されたのは中村吉蔵作の「帽子ピン」一幕で、これが広島で最初に紹介された、キモノを着た新劇記録である。

 三十余年前の芸術座広島公演の一石は、後に、広島文芸協会、広島十一人座などの、いわゆる素劇団創生の波紋となった。

 芸術座としては大正八年一月、有楽座でメリメェの「カルメン」上演最中の五日朝、松井須磨子が島村抱月氏を追うての自殺で、中山歌子がその代役をつとめ、その当時の配役のままで同年の春、同じ寿座の舞台に現れたが、この時のホセは森英治郎、ミカエラは映画に出て蒲田時代をつくった後の川田芳子で、歌子のカルメンの写真が本通りの店へ飾られた時には、須磨子なりせばの感がしないでもなかった。それだけに歌子の「煙草の歌」は、カチューシャ程(ほど)には唄われなかった。

(2016年5月15日中国新聞セレクト掲載)

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