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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十四)新劇の記録(その2)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 その後の芸術座は水谷竹紫が八重子をヒロインとして、昭和初期同じ寿座の舞台で「復活」を再演したが、法廷の場など彼女の熱演にも拘(かかわ)らず、東京娘のカチューシャは、所詮(しょせん)ゲイジュツ的ではなかった。ネフリュフドフは、森英二郎が務めていたようである。

 新劇二枚目型の森英二郎といえば、彼が大正五年十月、芸術座へ臨時加入する前であるから、その年の春、無名座の東儀鉄笛とともに寿座の舞台を踏んでいる。この時のだし物は、鉄笛自身が頭を丸刈りに落としての日蓮上人劇「法難」で、日蓮と渡り合う森の鎌倉武士は大役であった。文芸協会以来の有力メンバー、東儀鉄笛の「法難」や広島来演については、中央にもこれを記録したものがないだけに、とくにこれを書きとめた。

 倉田百三作の「出家とその弟子」が発表されたのは、大正五年で、翌年の秋には早くも舞台協会の手で寿座の脚光を浴びている。倉田氏が広島県の出身であり、だし物が安芸門徒にはもっともユカリの深い土地柄だけに、広島公演が選ばれたのかも知れないが、当時の「舞台協会」は文芸協会の少壮派であった佐々木積、森英二郎、加藤精一、横川唯治(のちの山田隆也)らで、佐々木の親ラン、森の左衛門、それに横川の唯円と岡田嘉子の扮(ふん)した楓上の現代語ラブシーンは、その後の彼女が今以(も)って話題にされているだけに、語り草となっている。なお、舞台協会が本格的舞台照明装置を広島へ伝えたのはこの時であった。

 倉田百三の親ラン劇が、中央、地方ともに問題にされたのはこの上演以後で、素劇団広島十一人座が第一回公演前―即(すなわ)ち大正九(一九二〇)年一月二十七日のおたい夜(真宗安芸門徒たちが、親ラン上人を偲(しの)ぶ夜の集い―毎年一月十五日夜に当るが、その年は旧暦によったのか)には、塩屋町専勝寺でこの劇を上演した。

 親ランに扮した広沢久雄の述懐によると、上人が越後の雪中で左衛門にちょうちゃくされる場面になるとあまりのいたわしさに、南無阿弥陀仏と念仏を唱える善男善女から、二銭銅貨のおさい銭を投げつけられて、親ランならぬ身の同君は、このさい銭つぶてに頭を抱えて逃げることも出来ず、閉幕までこの投げ銭の苦難に甘んじたといっているが、この夜のことが写真入りで新聞に報ぜられたセイか、真宗各寺から「出家とその弟子」の上演方申込みが殺到して、当惑したとのことである。

 <注>旧漢字は新漢字とし、読みにくい部分にルビを付けました。表現は新聞掲載時のままにしています。

 この連載は昭和24(1949)年9月から12月にかけて「夕刊ひろしま」に掲載したものです。

(2016年5月22日中国新聞セレクト掲載)

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