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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十四)新劇の記録(その3)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 演劇の実験室といわれ、日本新劇史の金字塔である築地小劇場の寿座初来演は、大正十五(一九二六年)九月二十九日から十月二日までの四日間である。

 一行は前夜、呉市春日座での公演を終えて、二十九日朝広島着、たまや旅館に投宿している。はじめの二晩はアンドレェフの「横面をはられる彼」、あとの二晩はゲエリングの「海戦」、小山内薫作「息子」、ショウの「馬盗坊」で、三幕を通じての丸山定夫の演技が思い出される。この時の顔ブレは、築地のスタッフを総動員したもので土方与志、青山杉作、千早正寛、和田精、水品春樹のほかに、演技部員では伊達信、滝沢修、汐見洋、山本安英、若宮美子たちの名が思い出される。

 「海戦」は大正十四年春、十一人座が築地の宝塚公演を見て上演していたので、初演二年後にして本格的“海戦”を再演せしめたワケであるが、前述のように広島とは関係の深い青鳥歌劇以来の丸山が「第一の水兵」「息子」での火の番、「馬盗坊」のボスネットを熱演しまさに築地なるかなの感を与えた。ぶどうマークのバッジと特異のキャップを被(かぶ)った、黒ずくめ姿の小劇場員が、盛り場を練り歩いた得意そうな顔も忘れられない。

 翌昭和二年二月五、六両日の来演は、シュテルンハイムの「ホウゼ」、武者小路実篤の「愛欲」で、六日の午後、十一人座が元安河畔の産業奨励館ホールで、土方与志、友田恭助、田村秋子、吉野光枝、薄田研二、島田敬一らとの座談会を開いた。話題は終始「愛欲」を中心としたもので、この時の挿話が、のちに演劇新潮に掲載された。一行を広島駅に見送った時、全員が三等車に乗り込んだのも、当時としてはこの劇団だけでやれるシステムであると、感一入(ひとしお)深いものがあった。

 同じ年の十一月、築地三度目の来演はチエホフの「熊」と「伯父ワーニャ」四幕の上演であった。汐見洋のワーニャは丸山とは別味の演技ブリで、山本安英のソーニャも印象深いものであったが、杉村春子の老婆マリーナは広島への初お目見得であった。杉村が郷土公演なるが故に、「熊」のポポーワを演(や)らせて貰(もら)えるらしいとの杉村親子の言葉に、その晴れの舞台振りを期待していたら、東山千栄子がプロどおり、あっさりと片づけてしまった。その後間もなく訪露途上の小山内薫先生が、「杉村は大モノになりますよ」と、広島駅頭でいわれたことが思い出される。

 分裂後の新築地劇団が、「何が彼女をそうさせたか」を持って、新天座に現れたのは昭和四年七月で、広島で公演された築地の新劇記録は、右の四回きりである。

(2016年5月29日中国新聞セレクト掲載)

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