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社説・コラム

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十五)素劇団の歩み(その1)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 芸術座の妖精松井須磨子の寿座出演は、ツイに封建色濃厚な城下町ヒロシマに、いみじくも素人劇団結成の機運をもたらせた。

 すなわち、柿ようかんが新名物として登場間もない大正七(一九一八)年の夏頃で、当時の広島在住新聞記者を中心に、「広島舞台協会」が結成され、その年の十一月三十日、寿座でツルゲネフ作、楠山正雄訳「その前夜」、中村吉蔵作「肉店」が公演されている。「肉店」での牛肉は、こんにゃくを赤インキで染めたもので、ホウ丁がナマクラであったために、このコン肉はちぎり切られたそうであるが、十一人座の創設者である広沢久雄も、当時の記憶があまりハッキリしない程(ほど)、古めかしい話である。

 これが広島での、アマチュアによる新劇運動の最初の記録である。―その翌八年一月は須磨子の自殺、四月には芸術座再度の来演で中山歌子のカルメンが上演されたのは前述のとおりで、とくに須磨子の死はデルタ地帯若人たちから愛惜の情でむかえられた。そして後年広島名物とまでいわれた素劇団十一人座の創立が、この年の十一月、当時の細工町国光生命支店階上で行われた。

 この素人劇団が、どうして十一人座と名づけられたのであろうか。先頃筆者がゆくりなくも福山のある演劇ファンから、広島十一人座は、キリストの十一人の使徒になぞらえて結成されたものだということを聞かされたが、およそこのグループには、キリストとゆかりのありそうな人物は一人もいなかった。

 というのは、大正八年十一月十一日夜、結成時刻が十一時、会する者十一人であったので、十一づくしにあやかって「十一人座」と称(とな)えられたにはじまる。その顔ブレは新聞人を中心としたもので、殆(ほと)んどが舞台協会のメンバーで、毎日の小田善作、朝日の山名正太郎、中野正夫、芸備の松子喜一、岡崎虫文、それに大上旭、竹田きよ、塩谷春平、中原和夫、広沢久雄、国光生命の伊藤某の十一人、顧問格として中国の主筆西川芳渓、ピカドンで物故された松井、森田両弁護士の名が挙げられている。顧問格はとも角(かく)、かんじんの十一人はそれこそキリストとは関係のナイ連中なので、フクヤマ説は誤伝であるというワケである。

 翌九年一月五日夜、中島本町カフェー・ブラジルで、この劇団が「島村抱月、松井須磨子の追悼会」を開催し、二階の会場は多数の花輪で飾られ、両故人の写真を前に西川芳渓氏を中心に、十一人のハリ切った聖徒たちが、明るい顔での記念撮影を行っているが、今や広沢久雄を残して、殆んど天国への旅立ちをしているらしい。

(2016年6月5日中国新聞セレクト掲載)

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