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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十五)素劇団の歩み(その2)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 十一人座としての、最初の芝居は大正九(一九二〇)年の一月二十七日夜、塩屋町専勝寺での「出家とその弟子」で、広沢の親ランが二銭銅貨のおさい銭の雨に打たれた悲ソウなエピソードは前稿どおりである。その後同年三月三十一日、四月一日の両夜、たたみや町寿座前は、多数の美しい花輪に飾られて、記録的な第一回公演が行われた。

 二晩とも満員の盛況で、上演レパートリイは中村吉蔵作「帽子ピン」、「出家とその弟子」、シユミット・ボン作、森鴎外訳「ジオゲネスの誘惑」の三本だてで、いずれもが東都新劇の再演モノであった。イノに扮(ふん)した竹田きよの演技は、その大柄がモノをいってかあでやかであり、体躯(たいく)堂々たる食いザカリのような広沢久雄のジオゲネスは、親ランとは別人の名演技を見せ、市内の酒造家から借りて来た大桶を舞台一ぱいに並べた装置は左官町白馬堂主人、中原和夫の企画であった。

 幕間に、そのころ新川場橋西詰に洋画材料を扱って、文房具店を開業していた耳カクシ髪の恒川女史が観客の間を縫うて造花を売り歩いて、十一人座の基金を集めた姿も思い出される。入場料は下足料とも十銭であったが、一晩千人以上の入りで、小屋側としては舞台の諸経費を差引いても手が打てたので、十一人座は劇場側の信用をえて、それ以後の公演には、いつもこの劇場が提供された。

 二度まで演じた親ラン劇の評判は、更(さら)にヒョウバンとなって京都までも伝わり、親ラン劇を映画化して巡業していた仏教活動写真劇協会から、映画作成の申入れをうけ、前渡金百円が手交された一方では、己斐付近で雪の場面をロケすることになり、多量の食塩が俵のままで準備されたが、協会側の都合でこの撮影はお流れとなった(もっとも十一人座の映画企画は、声の小劇場として昭和八年であったか広島県優良児童推奨会の委嘱をうけて、広沢久雄、村山洋子を中心に、当時のFK子供の時間を担当していた倉田三郎のシナリオで、「強い子供」が十六ミリで撮影され、公会堂庭園や旧福屋百貨店でロケを行い、この作品は県下各地で公開された。なおこの時の主役は洋画家神田周三氏のベビーであったはずである)。

 十一人座はこの初演以来、昭和二年の第九回までの公演をつづけたが、創立以来の同人には、広沢久雄が島松勝彦として知られており、石山建二郎、塩谷春平、中原和夫、武藤白咲、伊藤英司、笹村虹二、汐見研二、柳葉子、夢殿るり子、築紫ゆかりなどの名がみられるが、武藤氏は病没、塩谷、中原両君は原爆で倒れた。

(2016年6月12日中国新聞セレクト掲載)

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