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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十五)素劇団の歩み(その3)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 ついでながら、盛り場の玄人筋にウケた十一人座の演(だ)し物のあらましを記録すると、大正十(一九二一)年六月の第二回は「父帰る」「熊」「月の出」「賭」、三回は十一年三月で「国境の夜」「順番」「煌(きらめ)ける門」「嬰児(えいじ)殺し」「ソロモンの壺(つぼ)」、四回は十一年十一、十二月でツルゲネフ「その前夜」と「父帰る」―このあたりから菊池寛氏のモノが好評を受ける。一方では劇団に対してなんとなく敵視する人たちも現れ、素劇団としての苦難の途がつづいたが、広沢、武藤両氏の地方演劇への熱意は、一部のデマを打ち破って進んだ。

 広島としては、まさに新劇啓蒙(けいもう)時代であったワケである。劇団の強味は、開演毎(ごと)に劇場側やムツカシイとされた舞台方の支持を得たことで、開幕中悪弥次(やじ)があると、道具方までが飛び出してこの弥次への蒙を啓(ひら)いた程であった。

 もっとも華々しかったのは第五回公演(大正十三年三月)、メリメエ作「カルメン」五幕と額田六福の「晩鐘」の二本だてを出した時で、三日間文字どおりの満員で、公開前新天座での三ケ月にわたる舞台ゲイ古も忘れられないが、のちに蒲田入りをした夢殿るり子のカルメンが輝いている(彼女は芝で生れて、神田で育った江戸ッ子だそうである)。

 六回はこの年の十一月で「牧場の兄弟」「街の子」、七回は十四年四月で「牛と闘う男」「星を数える人々」そのほか。八回は同じ年の十二月、ゲエリングの「海戦」を、築地の広島来演前に上演したが、二科展の恒川義雄が表現派のメークアップを手伝っている。終止符を打った昭和二年四月の第九回公演は鈴木泉三郎の「次郎吉ざんげ」、シングの「谷の影」を上演、十一人座としては、珍しく髷(まげ)物を上演している。

 十一人座がその後、声の小劇場として放送や、新天座公演、地方巡演をしたことは省くが、そのほかのグループの演劇活動では、大正十年であったか伊藤京二たちが、広島劇場で「地蔵経の由来」を上演。昭和二年春、八丁堀歌舞伎座では十一人座を抜けた塩谷春平たちの白鳥座が試演を行い、演し物は「劇と評論」の新作品を上演し(題名作者とも思い出せない)、舞台装置は故山路商が担当して、非凡な表現派形式で、白い手を中心に舞台一パイを自分で飾りつけた野心的装置には驚かされた(その頃山路商は、歌舞伎座前の仁丹の広告塔下で、真夜中によく絵を描いていた)。

 また、昭和三年春、黒点座公演に十一人座から笹村、汐見が浜村米蔵作「早春の頃」を客演しているが、武藤白咲が面倒を見た。大正六年、広島文芸協会創立以来およそ十余年間の、前期広島素劇団の歩みは右のとおりである。

(2016年6月19日中国新聞セレクト掲載)

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