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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十六)盛り場挿話(その1)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 盛り場の変センというのか、おさん狐(ぎつね)で知られた江波の船着場は、宮島通いの足場となっていただけに、今様流にカイシャクすれば、差しづめ宮島線の西広島駅というところであろう。そこには戦後に時ならぬ己斐町盛り場が現出したように、江波には定小屋の中座ができて、広島生れの名女形坂東秀調の芝居が、芸州人の好みに応じて、夢の盛り場を描いたことあろう。――というのは、今もっておさん狐の伝説があり、その芝居が大正初期まで市内の劇場で演ぜられたり、材木町妙法寺に坂東秀調の墓が残っていることなどが夢ナラヌ裏付ともなっている。

 狐ついでに、もう一度、新天地にある明治三十一年十一月に刻まれた「正一位紅桃花稲荷大明神」の石標を持ち出すが、いなりさまの神体はともかくとしてピカで残ったこの石だけは、そのカミの盛り場新天地のシンボルであり、この界隈(かいわい)は大正琴の音がピンピンと聞かれたり、ワンダス館などという電気写真屋があって、若い新聞記者が死美人のシャシンを探すのに、本人の宅を訪ねなくともここのおやぢに話をすれば、手ごろのモノが見つかって、彼氏のノルマが果されたという昔話も思い出される。――そんなワケでもしもこの狐の石標が姿を消せば、流石(さすが)の盛り場新天地も一巻のオワリになることを思うにつけ、この石だけは盛り場復興のために残して貰(もら)いたい。

 筆者が、特に二度までもこの石の話をムシ返したのは、先頃この盛り場近くの竹屋橋を通行のおり、四十年来見馴(な)れた「竹屋地蔵」がスッカリ見られなくなったからである。もともとあの日の一撃で、さしもの石地蔵も首がフッ飛んでそのまま焼跡の台石の上に転がされていたので、いづれは原型に復するものと思っていたら、遂(つい)にその台石まで取り片づけられてしまった。

 はかなくもヒロシマの昔の姿が消えてゆく一方では、流川筋銀座東宝近くに、まことにウルワしき石地蔵が出現して、原爆後の広島地蔵のナンバーワンというか、オンリイワン的信仰を集めているようである。まさに移り変る盛り場のエピソードであり「オリンピック」の近くにある石地蔵などといえば、広島訪問の外国人客も戸迷いすることであろう。

 ついでながら、筆者が記録した竹屋地蔵として最後に採ったメモは、その台石に「明治三十二年八月御願成就、下流川中村米松」また花筒には「文政十二己丑二月、新久屋長三郎奉納」と刻まれていたことを付記しておく。

(2016年6月26日中国新聞セレクト掲載)

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