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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十六)盛り場挿話(その2)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 広島でキモノの柄に市松模様が流行したのは大正八、九年頃で、新天地創設間もないこの盛り場を彼女たちが色とりどりの市松で、高足駄をカラカラと音だてて歩いたのも、ツイ先頃のような気がする。今どきのロングスカートが、若い彼女たちの流行であるのと違って、市松模様には年齢的限界はなかった。革屋町のカクマル堂という絵ハガキ屋の前に、桃割を結い市松姿の娘サンたちが立ちならんで、六枚つづきの義士討入りや、一の谷合戦の絵はがきを見ていたのは、大正中期を代表した風俗であった。まだその頃は、映画役者のブロマイドはなかった。

 そのかわり若い彼女たちの間では、夢二、華宵描くところの夢見るような女性や、四葉クローバなどを刷り込んだ、封筒便セン紙集めが流行していた。また乙女たちは無造作に束ねた髪に、大きなスプーンのような高級セルロイド製の櫛(くし)を一本打ち込んだ(パーマでは所詮(しょせん)留められるシロモノならず)いともあでやかなスタイルでカフェーブラジルのライスカレーを食べ、秋田のコーヒーをのみ、三角の肉うどんをすすったもので、これが当時の「彼女たちと食ベモノ」のウエイトのある記録である。

 食ベモノと言えば、盛り場―それも西のクルワで見かけた珍らしいものに、年の頃四十五、大形の男で金モールき章をつけた立派な帽子を被(かぶ)った、街のおでん屋が思い出される。キレイ好きを思わす屋台車のこしらえから、その服装までが清潔で、凡(およ)そミソ煮込みのおでんをあきなうタグイとはうけとれない(その頃のおでんとはこんにゃくの薄切三枚を竹串に差したもの)。梶棒(かじぼう)に大型の風鈴をつけ、時々チリンチリンと鳴らして一席口上をやる。これは彼がおでんを売るたび毎(ごと)の御礼口上で、それがスムと直(す)ぐに車を曳(ひ)いて移動する習性を持っていた。

 屋台車の飾りになっているガラス障子の模様―それは三日月にほととぎすの絵を指して「これはこれ、なくまで待とうほととぎすと思いきや―大違い―まことや、これはからすです。からすはからす―スリガラス」と言った具合に誰かにこの駄ジャレを聞かすと言うよりも、自分の喋(しゃべ)りをたのしんでいる風情であった。どこか園遊会があれば、煮込み屋台もろとも買われて往(い)って、御機嫌を取結んだらしく、記念写真にはいつも彼氏が風鈴を持って納まっていた。夜の盛り場での名物男であったが誰であったかは知らない。最も不図(ふと)したことから、この屋台車が平塚町の軒並みに、昼間休んでいるのを見たことがある。

(2016年7月3日中国新聞セレクト掲載)

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