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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 夢の盛り場―新天地界わいの思い出― (三十六)盛り場挿話(その3)

文・薄田太郎 絵・福井芳郎

 この挿話の最後は、盛り場の恩人で結ぶとしよう。もっとも、これは中国新聞社が大正十五年現在地(注・旧社屋のあった広島市中区胡町)に移転し、それを記念して昭和二年に刊行した「巨人新人」からの抜き書きによると、広島の東部盛り場の育ての親といわれる者が、二人ある。

 その一人は、胡町尼子醤油(しょうゆ)店の先代主尼子忠蔵氏である。広島に初めて電車が開通した大正元(一九一二)年、新生の千日前は胡町と裏合せになっていた。つまり盛り場出現には、どうしても尼子家の醤油庫や借家を整理しなくては、広場がつくられなかった。東部唯一の盛り場タン生を阻むものは、これらの建物であったので、先代主は十二代目勝吉氏と相談の上、これらの倉庫や借家を取除いて、新盛り場にその敷地を提供したのであるが、この事実はあまり知られていないと書かれてある。即(すなわ)ちその敷地に太陽館その他が建てられて、まもなく広島人のオアシスがつくられたワケである。

 今一人は堀川町の高野一歩氏であるが、同氏は大正八年以来、広島土地建物会社の設立―新天地現出の恩人とされている。毎度書いた堀川町広島中央勧商場は、実のところ立ちクサレのままで大正中期を迎えたが、広島の繁栄が東進することに着眼した同氏は、この勧商場を新娯楽場として再生する案をたて、地元を勧誘したが一向気乗り薄のところから、大阪方面に飛んで帝キネの山川吉太郎氏たちの説得に成功した。

 かくて、新天地タン生が、実現したのである。明治末期広島の盛り場が中島集散場につくられ、幾(いく)ばくもなく堀川町勧商場にその中心が移ったかと思えば、大正初期さらに八丁堀千日前へと延び、三転して高野一歩氏の熱意が新天地を実現せしめたあたり、広島盛り場五十年間の変センは、あの原爆によって一場のユメと飛び散っただけに、感ガイ無量なるものがある。

 最後に新天地の青鳥オペラを足場に旅役者となった丸山定夫が、築地小劇場以来、新劇界の第一人者となり、昭和二十年八月六日移動劇団さくら隊指導者として高野一歩氏ソカイ跡の寮で世紀の閃光(せんこう)に遭い、この盛り場を背景に数奇の生涯を終ったのは、いたましい挿話である。

 彼の広島での初舞台を偲(しの)びながら、その年の八月十六日、厳島の存光寺でメイ目した。(完)

(2016年7月10日中国新聞セレクト掲載)

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