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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (一)はしがき

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島での「がんす」という言葉は博多での「ばってん」と同じように使われていたと思う。すくなくとも明治の末期までは、この「がんす」がある程度、ヒロシマを代表した言葉であったような気もする。幼なき日の思い出に、水色の表紙で、平仮名で右から左の下にかけて「がんす」と書かれた薄ッペラな雑誌の文字をハッキリと覚えている。当時としては、広島花柳界の噂(うわさ)話でも書かれたものであろうが、この「がんす」の表紙は今でも忘れられない。

 日常会話にこの「がんす」が愛用されていたもので、それだけに昔のヒロシマを思い出すにはかっ好な言葉であった。また、広島娘が例外なしに使った言葉に「ありきしょっヨ」という言葉がある。いうならば、「うちはどうしょう」という恥じらいの言葉で、そのかみの娘さんたちが桃割姿で、久留米絣(がすり)の前だれを顔にあてて話し合ったもので、いみじくも明治時代の名残りをとどめた〝ありきしょッ〟風情である。そのころにはまだ眉をそり、お歯黒をつけ、寒い日にはお高祖(こそ)頭巾で顔を包んだ女性の一群があちこちにみられたもので、城下街広島の風情は、ここ四十年前までは身近に感ぜられたものである。

 ところが原爆後のヒロシマには東から西に貫通した百メートル道路が出来、二十メートル道路、四十メートル道路という新道路などが交錯して、そのかみの広島人生活の焦点であった五十幾つきの橋や、七十ケ所以上の町のかたちや、いわれのあった六十数ケ所の小路などは、それぞれに昔の姿を消してしまった。あの街角に見かけたかつての小景や、盛り場のシルエットなどは、跡かたもなく原爆に打ちコワされてしまった。

 筆者はその打ちのめされた裏小路の一隅から、在りし日の広島の幻影を偲(しの)んでみたい。しょせんはひろしまのよもやまばなしではあるが、あのころの城下町の街角から拾った一駒、一駒を綴(つづ)って「がんす横丁」に書きとめたいと思う。そして少しでもあのころのヒロシマの姿が伝えられるならば、筆者の望外な幸せであるとも思う。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。各回の記事の長さがまちまちなため、分割掲載するなどの調整をすることがあります。

(2016年7月17日中国新聞セレクト掲載)

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