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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (三)鶴見橋西詰にある道標

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 鶴見橋の西詰に二つの石標が建てられている。しかしこれは鶴見橋とは直接かかわり合いのある石標ではない。

 一つは修路記を刻んだ石標で、発起人木本岩助、菅原英之助ほか五人の名前が刻まれている。記文の意味は、竹屋町から段原村への修道路のいわれを伝えたもので、明治二十三年、修道校主山田泰吉撰(せん)とあり、石のサイドには日清戦役に鬼将軍といわれた佐藤正の名も刻まれている。修道校主山田泰吉は有名な十竹先生のことである。

 この修道記のある石の左手には、高さ二メートルの道標があり、台石の上部は空洞となって、時として灯を入れるような仕かけになっているようだ。その下には道標の行方を指した立派な右手首の彫刻があって、その下には明治三十八年十一月、比治山陸軍墓地、公園道とも刻まれている。そして道標には「是入西鶴見橋通り」、建設者旭爪孫兵衛と筆太に刻まれている(ついでながら、建設者旭爪孫兵衛の名前は、同じ百メートル道路に面した旧西塔橋のところにある白神社入口の社標にも同じ名前が刻まれて、邦楽の広島の通人として三年前に亡くなった旭爪脩一氏の厳父であることを付記しておく)。

 この修路記の石標と比治山への道標は、この西詰にある原爆以前の記念物であるが、それよりもこの二つの記念物が奇(く)しくも、ヒロシマ新名物百メートル道路の基点の役を果していることを忘れてはならないと思う。この百メートル道路は、鶴見橋から己斐町まで幅百メートル、長さ三千二百メートルの道路で、この未完成の道路は、かつての原子沙漠(さばく)の名残りをそのまま伝えているので広島人としては、なかなかに忘れられない新道路である。

 道路の両側は散歩も楽しい桃の花咲く道として計画されていると聞くが、爆心地近く相生橋通の電車道に、先ごろ「さるすべりの木」が植えられて、思いがけない薄桃色の花を咲かせたあたり、広島の二十四本の幹線となる道路の将来が楽しめるワケである。

 この鶴見橋の西詰の二つの石標が中心になって、己斐町までくりひろげられた百メートル道路には、「夢の広島」の要素がどのように明るい実を結ぶことであろうか。この二つのこげ残った道標は、必ずやこのとてつもない百メートル道路の道祖神の役を果すことであろう。

 人間は何(ど)うして集って暮したがるのであろうか。それぞれに「楽しいわが家」を営みたいからと集まったものが、なにゆえにかくも「楽しかったわが家」を潰(つぶ)されて、思いがけない、とてつもない広い道路が、出来あがろうとしているのであろうか。ここに筆者は広島の悲劇をこの道路をみるたびごとに思い出す。比治山の一角からこの百メートル道路をみると、道路の中央が一直線に白く東から西へ流れている。鶴見橋西詰の二つの道標が、この白線道路に皮肉な対照をみせているのも痛ましい。

(2016年7月31日中国新聞セレクト掲載)

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