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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四)百メートル道路にあった地獄図絵

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 筆者はいまさら、この道路上での原爆の悲劇を想(おも)い出して、そのかみ広島にあった地獄図絵との皮肉を書くつもりではない。あのころの懐しい広島の姿や“がんす横丁”が、この百メートル道路上のあちらこちらにあったという想い出は、広島人の郷愁かも知れないが、以下この百メートル道路の今昔をつづってみたい。

 まず竹屋橋近くにあった竹屋地蔵。それにもっと西に渡った西塔橋側にあった楠木地蔵、また東寺町一円の寺院や墓地は、ほとんどこの百メートル道路の中に姿を消したが、これら沢山(たくさん)の寺院のうちでも芸州戒善寺では毎年旧正月十五、六の両日、境内の高い二本の柱に釣り揚げられた地獄図絵、すなわち別称「六道一念の図」を公開し、慈仙寺境内に掲げられた「ネハンの図」とともに、昔の広島人には深く印象づけられた行事であった。

 早朝から詰めかけた参詣人の前で、墨染の衣を着た若い僧りょが長い竹サオを持って、針の山や血の池地獄など地獄の様相を詳しく説明してくれた。時々ぼん鐘が鳴って読経の声が聞かれた。この絵の前の上敷には大きな二銭銅貨や一銭銅貨の賽銭(さいせん)が投げられていた。この縦七間、横四間五尺の地獄図絵は、いまもって筆者たちへ人間の正しい生き方を教えてくれたもので、戒善寺のエンマ縁日風景はなかなか忘れられないものである。

 明治十六年十月、大阪府の渡辺来之助が編集して当時の広島風景を銅版刷にした、広島の京橋町正木安兵衛が細々と戒善寺の「六道一念の図」をつづっている「広島案内」という大福帳のようなものを、筆者は持っていたが、あの日の原爆で広島の昔をしのぶもの一切を失なってしまった。戒善寺の絵も今の百メートル道路で一片の灰になった。

 とくにこの絵によって人間の正しい生き方を信じていた人たちが、思いがけない劫火(ごうか)に倒れたことは、なんという皮肉であったであろうか。新爆弾を投下した人たちは、果してダンテの神曲を信じているであろうか。またこの戒善寺近くにあった竹屋橋際の地蔵と西塔橋側にあった楠木地蔵のことも忘れられない。

 この二つの地蔵の話には、もともと毛利輝元がカープに関り合いのある広島城(つまりは鯉城(りじょう))を建てた当時の話をつけ加えなくてはなるまい。鯉城は、この土地が己斐の浦に臨んでいたのを、己斐が鯉(こい)の音に通ずるところから名付けられたものといわれるが、百メートル道路の終点が己斐であるのも今昔談になりそうである。

 豊臣秀吉が天下をとると、西で気になるのは毛利輝元であった。秀吉はなんとなく毛利氏の本城、安芸の吉田にある郡山の城を、どこかに移転させようと考えはじめた。

(2016年8月7日中国新聞セレクト掲載)

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