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連載・特集

第100代首相 岸田文雄物語 <8> 核兵器なき世界

ライフワーク 現実の壁

 衆院初当選から15年目の2007年、岸田文雄は沖縄北方対策や科学技術政策などを受け持つ内閣府特命担当相で初入閣した。自民党青年局長などの「登竜門」をくぐってきた経歴からすると、50歳はやや遅咲きといえる。

 引き立てたのは、当選同期で気心が知れていた時の首相安倍晋三(67)だった。その第1次改造内閣は安倍の持病悪化により1カ月で幕を下ろし「政権投げ出し」と批判を浴びたが、岸田は続く福田内閣で留任。消費者行政や宇宙政策が担当に加わり「食卓から宇宙まで。その肩書が珍しかったのか、テレビ番組に呼ばれたのは俺本人でなく名刺の方だったなあ」と、笑いながら振り返る。

 折しも「中国製ギョーザ中毒事件」などが起き、官邸から消費者庁創設の地ならしを命じられる。経済産業、農林水産などの関係省庁を回ると、大臣や幹部職員が渋面で待ち構えていた。「うちの省は権限も人も手放さないぞ」。縦割り行政にあきれながらも、粘り強く交渉。消費者行政の一元化にめどをつけた。

 実直な仕事ぶりに加え、選挙の強さから党内での存在感を高めていた。大きな飛躍を遂げたのは12年だ。

 10月、元党幹事長の古賀誠(81)から伝統派閥宏池会の会長を引き継ぐと、12月には旧民主党から政権を奪い返した安倍の第2次政権で外相に就任。「トップ外交」に走る首相に花を持たせながらも、被爆地広島の選出議員としての使命に情熱を注いでいく。

 「広島に根を張ってきた岸田家の親戚や縁者も被爆の難を免れず、夏休みなどで東京から帰省した際は近所の人たちから悲惨な話をたくさん聞いた。『核兵器のない世界』に向け、外交で力を尽くそうと考えた」

 各国指導者に被爆地訪問を呼び掛け、有識者が核軍縮を話し合う「賢人会議」を主導。こうした取り組みが16年4月、先進7カ国(G7)外相会合の広島開催につながり、翌月には米現職大統領として初めてオバマ(60)が広島を訪れた。

 平和記念公園を案内し、大統領の演説に胸を熱くした岸田だが、翌年に政府は核兵器禁止条約制定交渉への参加を拒否。岸田は当初、参加の考えを示したが最終的に官邸の意をくんだ。首相就任会見で「何回もぶち当たった」と語った「厳しい現実」の一端である。

 「核兵器のない世界を目指すことがライフワークという発言が本当ならば今こそ行動に移して」。首相就任の4日、書簡を送ったのは岸田の遠戚でカナダ在住の被爆者サーロー節子(89)だ。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞授賞式で演説した翌18年、党政調会長だった岸田と会談したこともある。

 サーローが求める行動とは「条約の署名と批准を目指すと公約すること」と「来春の条約締約国会議にオブザーバー参加することの表明」。岸田が思い描くアプローチと交わることはあるのか。被爆者や国際社会は注視する。(敬称略)

(2021年10月13日朝刊掲載)

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