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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五)輝元が広島に移ることになった話

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 秀吉が天下を取ったときのプロセスには備中高松城の水攻めや、本能寺の変、矢継ぎばやに繰りひろげられた挿話には信長を討ち取った明智光秀との山崎弔(とむらい)合戦など、この英雄も次から次へと多忙だ。天下を取るには西の毛利氏の山城、吉田の本城をなんとかして平地に移して毛利氏とも手を握りたいものと、播州龍野の城主蜂須賀彦右衛門を使って当時の城主毛利輝元に広島出向方を薦めた。

 当時は広島といわず、この土地は見るからに葦(あし)の繁茂していた、水びたしの荒れ果てたところであった。決して川よとわに美しく、などといえるデルタ地帯ではなかったらしい。当時の呼称でいえば、五箇庄といわれ、鍛冶塚の庄、平塚の庄、在間の庄、広瀬の庄、箱島(白島)の庄の五つの地域で構成されていた。当時の岩鼻や比治山のすそは海水に洗われて、仁保島ははるかの海中に姿を見せていた。

 筆者は別に歴史家でもないが、毛利輝元は秀吉の威勢に屈して、ついに蜂須賀彦右衛門の取次の言葉を、そのまま実現することになった。そのようにすることによって、秀吉の西への野望を一応は食いとめるために、山城の吉田を降りて五箇庄に城を築くことになった。このことは秀吉としては、山城の吉田を攻めるよりも平地の五箇庄の城をつぶすには手間ひまは無いと思ったことかも知れない。

 すでに天正年間、秀吉は九州名護屋への途中、宮島を訪ねて、その風光を知っているところから「日本三景の厳島には近いし、商業界のためにも天下泰平のためにも、平地城をつくりなさい」と、重ねて蜂須賀彦右衛門の忠言となり、いよいよ五箇庄に城を築くことになった。

 もちろん輝元たるもの、一応は三原城主の小早川隆景や、重臣二宮太郎右衛門たちと策を練って、いよいよ新しい城を建てることになった。天正十七(一五八九)年のことである。

 一つの城を造るために城主たるものはそれぞれまず城を造る地形を調査するにやぶさかでなかったもので、雲州の松江城(別名千鳥城)を造るには、例の堀尾吉晴が広瀬の里を離れて現在松江放送局のある山に床几(しょうき)をすえ、これに腰を下してとくといまの千鳥城の地点を決めたもので、この床几をすえた地点が今もって床几山といわれているように、輝元とてもカープ城を決めるまでに慎重を期している。

(2016年8月14日中国新聞セレクト掲載)

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