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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六)広島という名の由来

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 いよいよ天正十七(一五八九)年二月二十日、輝元は堀尾吉晴と同じように部下に床几(しょうぎ)一つを持たせて、早朝に吉田を出発、途中北の庄(今の広島市北部)に一泊し、翌日早速、矢賀村(東区東部)の明星院山(二葉山)にまず床几をすえた。さらに牛田の新山(見立山)そして己斐の松山に床几を回して、はるかに葦(あし)野原の五箇庄を隅から隅までていさつ、ようやくに今の旧広島城跡に本城を建てる決心をしたワケである(ここらあたりで原爆のことをいいたいが、今の城跡に最初の城が築かれたなどというと、広島弁ではヤネコイ話になるので、この話はこのあたりでやめましょう)。

 もっともこれらの山々から五箇庄をみた輝元の目には、はるかの沖合には白いカモメが飛び、小さな漁船が一、二そう浮んで江田島や仁保島、牛奈島(宇品)などが霞(かす)んでみえていたとのことである。

 かくて築城計画が本格的になって、まず築城奉行には当時斯界(しかい)の優秀な技術家であった二宮太郎右衛門が任命された。一方、佐東郡毛木村(安佐北区西部)出身の佐々木太郎右衛門は、その土木工事の腕を買われて輝元に召し出されて二宮太郎右衛門を助けることになった。五箇庄の川割や町割を決めたのは、この佐々木太郎右衛門であった。

 この両太郎右衛門は本城が出来上がったとき、祝賀の白島での綱曳(つなひき)の両指揮者になった。この白島の綱曳行事は明治時代まで伝えられた。毛利時代の風習として伝えられたものはこの綱曳のほかに、毎年旧十二月ついたちの「川通りモチ」がある。また町人頭の平田惣右衛門も召し出されて、築城奉行の補佐の役を命ぜられた。

 そして、築城クワ入れが間もなく行われたが、その時、輝元は明星院山に腹臣の福島大和守を招いて「新しい城に名前をつけるには、五箇庄のうち、いずれの地名を採用しても差し当りがあるので、永久に変わらない名前として、わが祖先の大江広元の広と、汝(なんじ)福島の島を取り合わせて広島と名付けたい」と、輝元と大和守の合作で、今日の「広島」の名が、そのまま言い伝えられたワケである。

 その後、関ケ原合戦で輝元は徳川方から芸備側の土地を削られて防長二州に追いやられ、福島正則は鯉城に入って二十年、後に元和五(一六一九)年正則が広島を離れ、新しく紀州より浅野長晟(ながあきら)の広島入りということになる。

 広島城の名前は、奇(く)しくも広島に因縁の深かった毛利輝元と福島大和守の合作で、そのヒロシマの名が今日まで伝えられたもので、別名鯉城については、五箇庄のうちの己斐の浦の音に通じるところから、カープ城と言われたもので、これが広島の名のつくられた由来である。

(2016年8月21日中国新聞セレクト掲載)

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