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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (七)平田屋川

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 どうにも百メートル道路が広くて一向に「がんす横丁」にも入れず、ついに広島の由来にまで話をさかのぼったが、この百メートル道路を横断している平田屋川と西塔川のことも書き添えておきたい。前稿で町人頭平田屋惣右衛門のことを書いたが、彼は今日でも広島人には名染(なじ)まれている恩人であった。

 彼は出雲の国で尼子氏が盛んなころ、平田に新田を開いて、平田屋新田と名付けて、この土地に住んでいた。すなわち彼は平田を開墾して、その土木治水工事はすでに定評のあったもので、輝元は彼の名声をたよって呼び寄せた。彼は広島の築城や市街の建設に立派な手腕を振るったもので、後に彼の功労が報いられて、現今の平田屋町と鉄砲屋町入口の土地三十間を賜って町人頭となった者で、広島城の開府には忘れてはならない恩人であった。

 築城に当って、先(ま)ず東は竹屋川、西は西塔川を掘って溝をこしらえた。もちろん掘った土で平地を高くし、二つの溝には船を入れて、築城のために石や木材を運んだもので、この竹屋川と西塔川は、広島開府にはなによりの役目を果たした。

 竹屋川は別名を平田屋惣右衛門に因(ちな)んで平田屋川とも言ったが、この河(かわ)の効用として、専ら築城当時の物資を運搬したことは前述の通りであるが、もともと汚らしい溝で、川の底からメタンガスも出るというおよそ“川よ美しき広島”からぬ不潔な平田屋川であった。

 先ごろのドブ河も新川場橋まで埋立てられた。長さ二間、幅二十一尺の石橋、平田屋橋も掘り起こされて、栄光に輝いた平田屋惣右衛門の名も四百年で消えてしまった。

 国道にあった平田屋橋の一方はそのかみ交番所があった。その反対側には古色そう然たる金網づくりの広島県告示板があったところで、これは二十数年前の風景で、ときには平田屋川の流れの音が国道を歩いている人たちの耳に聞えたほどである。

 交番所の隣は永井幸兵衛氏の紙屋であった。鶴見橋西詰にある道標から直角に来る地点には竹屋橋があり、この木橋ははじめ長さ三間、幅二十一尺のもので、平田屋橋と富士見橋との中間にあったために中橋といわれた時代もあった。木製の橋であったものが、宝暦八(一七五八)年四月四日の大火で焼けて、それからは耐火性というのか土橋に改められた。

 更に天明元(一七八一)年十月、付近町民の希望で長さ十間五尺、幅二間二尺の木橋に改められ、大正四(一九一五)年の竹屋川埋立工事でセメントコンクリート橋になった。木橋時代、橋の渡賃として橋の東西で、一文銭を橋ケタのナワに各自が通して管理人の手数を省いたあたり、ユッタリした竹屋橋風景がしのばれる。

 また、この橋の側(そば)にあった石地蔵は百メートル道路のどこかに移転されたと聞いたが、この地蔵さんの台石には「明治二十二年八月御願成就下流川中村米松」、また花筒には「文政十二巳丑二月新久屋長三郎奉納」と刻まれているはずである。

(2016年8月28日中国新聞セレクト掲載)

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