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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (八)西堂川界隈(かいわい)

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 同じお地蔵さんでは楠木地蔵というのが、前稿で書いた地獄絵図で有名な戒善寺のあったところから五十メートルの西の地点にある。この楠木地蔵は楠木が刻まれた七尺以上もある美男の地蔵で、白神社の前にあって、白島正観寺地蔵尊とともに広島では指折りの地蔵さんで、大縁日の七月二十四日には沢山(たくさん)の参けい客が詰めかけた。本堂前の線香台から白煙が立ちあがり、折からの鐘が異様なふん囲気を漂よわせていた。地蔵の赤まんじの前だれが、極めて印象的であった。

 この楠木地蔵の側(そば)にあったのが西堂橋で、安国寺の僧恵瓊(えけい)が、京都東福寺西堂を出て広島の国泰寺に入った後に、この土地に西堂を建てたもので、時あたかも平田屋惣右衛門が、平田屋川とともに同じ築城の資材を運搬するために、千田川をさかのぼって西堂までの西堂川を構築した。西堂は西塔とも言われたもので、屋根のある西堂橋は、当時広島での名物橋であったらしい。

 イサム・野口氏がプランを立てた平和大橋のランカン―彼をしていわしむれば、二つの大橋はそれぞれ広島市民の希望で、平和橋とはなったが、元安川にかかった新橋は生活を新しく営んでゆく広島を象徴して「造る橋」という名前にしたかった。また、本川にかけられた新大橋はランカンが船のような形で、悲劇的な過去の広島から出直すための出発、あるいは別れという意味で「往く橋」または「去る橋」というアイデアを表現したといっている。

 西堂にいた僧恵瓊は、自分が東福寺で見た通天橋の横手を、そのままこの西堂橋に移して建てたといわれているが、この橋は長さ十三間二尺三寸、幅二間四尺で橋の全部が瓦葺(ぶ)き、その欄干が通天橋そっくりの珍橋であった。平和大橋の欄干が話題となったと同様、西堂橋の欄干は、当時の広島人を驚かせた建物であったらしい。

 広島築城に石材を運搬するために掘られた西堂川の界隈は、その後船着場としてにぎわい、石切町や石切屋町ともいわれて、石工が多数住んでいたもので、塩屋町や西蟹屋町、板屋町、それに備後尾道から多数の石工が住んでいた尾道町を出現したあたり、本筋の「がんす横丁」に移るが、このあたりで一応西堂川のことを片付けるとしよう。

 西堂川の終点、西堂橋は浅野氏時代、寛永四(一六二七)年極(十二)月二十五日の制札が、この屋根のある橋を物語っている。すなわち

   【定】
 一、はしのやねへむさと(無理に)あかり申ましき事
 一、同すゝめ子取申間敷候事
 一、はしのうゑにもち(鳥もち)おき申ましき事

 などがあって、別の意味では夜間、この橋の上で寝ることが許されなかったとのことで、すずめの子の捕獲をとがめているあたりはおもしろい。

 西堂橋は明治四十四年八月西堂川が埋立てられたときに、この橋も無くなり、西堂川にかけられた一連の真菰(まこも)橋(市公会堂前にあった土橋)、鷹野橋、高基橋(西魚屋町にあったもの)なども姿を消したもので、屋根のあった橋としての西堂橋は想(おも)い出の橋となるであろう。

 筆者の子供のころ、電車に乗ると今でこそ「次は白神神社前です」と言うのが、あのころには「次は西堂橋前です」と言われたもので、この電車での車掌さんの呼び声に昔の広島を懐かしんだものである。

(2016年9月4日中国新聞セレクト掲載)

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