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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (九)比治山の話

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 百メートル道路にとりつかれているうちに、肝心の「がんす横丁」を忘れたようなことになったが、話をもう一度振り出しに戻して、鶴見橋の西詰から始めることにしよう。

 この橋の目の前にウッソウたる松林に包まれている山は、その形があたかも虎がうずくまっているようなので、臥虎山とも言われ、広島在住の漢学者はこの山の表現をモッパラ「がこざん」と呼んでいた。昔の名称には秘地山とも言われ、今日では比治山と愛称されているが、今や愛称されるには、あまりにも惨めなハゲ山となっている。原爆のあおりは、この山の松林、桜、つつじ、その他のものを焼き払ってしまった。

 この比治山が広島市民の遊覧の土地として比治山公園と言われたのは、明治三十一年八月以来のことである。この山には陸軍墓地と御便殿がある。とくに御便殿は日清戦役のさい、臨時第七回帝国議会の開院式に参列された明治天皇の御便殿に当てられた建物を、この比治山の一角に移したもので、明治四十三年の紀元節以来、広島名所の一つにされた。

 その御便殿がデビューした時、広島としては初めての「宝探し」が行われた。あの日の朝、花火(広島弁でヒヤと言う)の音を合図に宝探しが始められた。すなわち、御便殿近くの草むらを探すと、あちこちの小さな木の枝に、みどり色や黄色の長さ五寸ばかり幅一寸ぐらいの布切れがくるくると、細い針金で巻きつけてある。それを拾って景品場にいくと、この布切れに書いてあった番号によって手ヌグイなどがもらわれたもので、私たちは子供心にこの手ヌグイ一本を探し当てたうれしさが今でも忘れられない。

 比治山の陸軍墓地は、各戦役ごとに広島を通過した報道人が必ず訪ねた有名なところで、小さな円角の墓標が整然と並んだ風景が思い出される。確か有名なラッパ卒、木口小平の碑もあった。また、奥まった一角には当時広島の衛戌(えいじゅ)病院長であった陸軍一等軍医正、小山内建氏の墓もあった。

 新劇の父と言われる小山内薫氏は、建氏が広島在任中の明治十四年七月二十六日、大手町二丁目で生れた。後年即(すなわ)ち昭和二年十一月、薫先生が築地小劇場のトラブルを脱(のが)れるようにモスクワへ向かう途中、広島駅のプラットホームで見たが、先生は頭髪をちょっと角型に刈って、茶色の背広、黒色の幅広のネクタイをして、両手をポケットに入れてコツコツと広島ホームを散歩された姿が思い出される。そのとき先生に陸軍基地にある建氏の墓の話をすると「物心ついてから、一度、父の墓に詣(まい)りたいと思ってきた」と言われた。

 小山内薫氏は遂(つい)に広島には来られなかったが、陸軍墓地にあった建氏の墓や、薫先生と広島については、つぎに令妹岡田八千代さんの話をお伝えしよう。

(2016年9月11日中国新聞セレクト掲載)

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