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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十)小山内薫氏と広島(その1)

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 話は比治山陸軍墓地から下りて小山内薫先生が生れた大手町二丁目辺りのことになる。先生は明治十四年七月二十六日の生れである。先日、筆者が広島の好事家から見せて貰(もら)った明治十年科部市助著「広島細見縮図」にもこのあたりのことが描かれていることと思うが、明治三十四年版広島地図を見ると、大手町一丁目角は、内外雑貨和洋酒西洋食料店として、井原青陽堂があって、国道を渡った二丁目には藤井祐七の名が見られる。また同じ二丁目には灘酒卸カブトビール販売元の橋本与平、それに三井銀行広島支店、芸備日々新聞社の名も見られる。そして小山内先生が生れた二丁目の叙景を令妹八千代さんは、次のように述べている。

 「二丁目の家の裏には川があって水がキレイで、よくエビが取れたものだった。よく母が語るのを聞けば、私たちの家は川添のところにあったらしい」。元安川でエビが取れたものだったという話は、広島の子供たちがいう「がんもん」のことであったらしい。

 小山内先生は五人兄妹で、一番上が女で貞子、二女が礼子、長男は広島にゆかりの名である広、二男が薫で、末の妹がのちの岡田八千代であった。そして長男広も幼い時に広島で亡くなって、その墓は広島にあったとのことである。

 川添の家と言えばどうやら鳥屋町側の家で、元安川がそのまま見られたところと言うからには、鳥屋町と二丁目とが一緒に考えられていたらしい。

 鳥屋町と言っても別に鳥屋があったところではなく、この裏通りを別の名で釘屋小路と言っていた。あるいは釘屋があったのでそのように言われたのかも知れない。この小路には虎屋という旅館もあって、大角力(おおずもう)の大関、横綱級がこの宿に泊るので、幕内力士のあこがれの旅館であったらしい。また、淀川ずしと言って、酢の効いた角ずしも広島名物であった。

 薫先生のお父さんは、とても美男で、あの家の旦那は毎朝玉子で顔を洗うので、なかなかの美男であったと、お父さんの葬式には街道は女の人で埋まって、皆んなが泣いたと、いまでもいい伝えられている。また、人望家で、比治山の陸軍墓地には建氏のよりも大きな墓を建てたものがあったが、後にはそれ以上大きな墓は禁じられたとのことで、筆者の記憶ではかなり大きい立派な墓で、陸軍一等軍医正小山内建という字を思い出す。

 当時小山内院長は三十七歳で、広島での花柳界ではなかなかに遊んだものらしく、広島は東京と違ってお茶屋でも料理屋でも勘定は盆と暮にしか取りに来なかったものらしく、そのかきつけが、長い手紙ほどもあるのに払う金はホンの少しだったとのことで、そのころの広島の豊かさというか暮らしのよさが思いやられる。

(2016年9月18日中国新聞セレクト掲載)

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