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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十一)小山内薫先生と広島(その2)

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 薫先生の父、中佐小山内建氏が亡くなられる当時、大手町二丁目の家には駒龍という十六になる広島の芸妓(げいこ)が引かされてあったとのことである。十六の駒龍は同居の錞夫人に可愛(かわい)がられたもので、中佐が亡くなってからは、夫人も若かったのでどうして好(よ)いか判(わか)らないので、実家へ帰してしまったが、遊んでも居られないと見えて、また、芸者に出た。もともと中佐は、この妓を受け出して東京へ連れて行き、学校へ入れて教育をしてから嫁がせるのだと言っていたとのことで、夫人もそれを信じ、また駒龍も信じていた。そこへ突然の中佐の死が訪ずれたのであった。

 岡田八千代さんの「若き日の小山内薫」のうちには、広島生れのその後の駒龍のことが、次のように書かれてある。

 それは兄が大学を出る年あたりであったと思う。それより前のある日のことであった。兄へ宛てて是非(ぜひ)お目にかかりたいから某日、池の端の弁天堂の例の料亭へ来てくれという無名の手紙が来た。兄は首をひねっていたが、これはもしかしたら、いつぞや亡父の命日に金をおくってくれた女の人ではないかしらと言っていた。ともかく向うの指定の場所へ行って見ようということになった。そして母には言わずにという向うの言い分を立てて、兄は大学の制服を着て(これも向うの頼みであった)出かけて行った。その夜、兄が帰って来たので、母の側を離れて、私は兄の部屋へ様子を聞きに行った。

 「やっぱり、そうだったよ」

 兄は目をかがやかして言った。そして手紙の主は、母が直感した通り、亡父の愛していた駒龍という者、広島で芸者をしていて、一旦(いったん)は父に引かされ、後、父に死別して再び芸者に出てから上京することを決心して、今では新橋で琴次と名乗って少しは人にも名を知られるようになっているということであった。そして大学の制服を着た兄をみて非常に喜こんで、道楽をしてはいけないとか、酒を呑(の)むようになってはいけないなど、いろいろ希望を述べたとのことであった。

 兄は、その人にあったことは母の亡くなるまで言ったことはなかった。でも母は、後になってからその人が、ずーっと父の墓を守っていることを聞き知っていた。多分、広島に残っているY叔母からの便りにでも聞いていたのかも知れない。広島生れのその人は、常にその故郷の知人を頼んで、よく比治山のお墓をお守りしているのだとかいうことであった。

 彼女は父の遺児として懐かしがっていた兄にも遅れて、六十を越した老いの身に、三味線を持つ座敷づとめこそ止(や)めたが、その後は若い者に小唄か何かを教えているということを聞いたが、(昭和十五年の)今はどこにいるのか便りさえもなく、尋ねるよすがもなく、日が経(た)ってしまった―と岡田八千代さんは小石川時代の薫先生と駒龍のことを書いている(因(ちな)みに小山内先生は昭和三年十二月二十五日に急死された。行年四十七であった)。

(2016年9月25日中国新聞セレクト掲載)

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