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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十二)小山内薫先生と広島(その3)

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 それにつけても駒龍と小山内先生の関係は、これが親子であったというハッキリしたことは、妹の岡田八千代さんの思い出にも書いてない。とくに大学の制服を着て、彼女と池の端の弁天堂の側の料亭で会ったり、そして彼女が広島で父にお世話になったことを言って、大学の制服を着た薫先生を見て非常に喜んで、道楽をしてはいけないと言い聞かせたあたり、筆者にはあの日の二人の出会いでは実の親子の情愛がにじみ出ていたように思われてならない。

 駒龍の居た家の裏には川があって、水がキレイで、よくがんもん(エビ)が取れたもので、私たちの家は川添の所にあったらしいと前述のように八千代さんは母からの話を伝えている。もちろん小山内先生は大手町二丁目のこの家で生れたワケである。しかし先生は生れ故郷の広島へは一度も来られなかった。駒龍のことを考えれば、あるいは意識的に来られなかったのかも知れないと思う。

 築地小劇場の広島公演―昭和元年九月二十九日からの四日間でもまた翌二年二月五、六日の同じ寿座公演にも顔を見せておられない。一回目は千早正寛、青山杉作両氏。二回目は土方与志氏が顔を見せているのに、薫先生はついに広島へ来られなかった。

 筆者が昭和二年十一月、広島駅のプラットホームで先生に会い、比治山陸軍墓地の尊父の話をしたとき「父の墓を知っていますか」と言われた先生の広島人をなつかしむまなざしは忘れられない。やがて先生に手を握られて別れたが、いまでもあの日のことが思い出される。かねて比治山陸軍墓地の話を知られた先生は、ウッソウたる松林の比治山を車中からながめられたことであろう。

 比治山の陸軍墓地を思うと、あの墓をお守りした彼女、老年になっても、まだ旦那の位牌(いはい)をその仏壇に飾って崇(あが)めていた彼女、そうした広島女の情愛が、ひしひしと胸に迫ってくるようで、あるころの静かな広島の風俗や人情も思い出されてくる。

 広島と小山内先生の話になると、ここらあたりで「さくら隊」丸山定夫氏の話も出そうなので、次の挿話でこの稿もカタストローフにしたい。

 ここで再び岡田八千代さんの筆を借りると、富士見町時代のくだりに、広島で生れた兄は大きくなってからも母にからかわれていた、とある。「お前だってあのころは、ととさん、かかさん遊びに行っても好(よ)うがんすかね。なんて言ったものだよ」。兄はこれを言われるのを一番にきらっていたとあるが「好うがんすかね」という広島特有のがんす調が、先生の日用語のなかに流れていたので、かくは「がんす横丁」に拾ったワケである。

(2016年10月2日中国新聞セレクト掲載)

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