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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十三)比治山と山路商(その1)

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 比治山に御便殿ができる前に、永年この山にすんでいたと言われる江波の“おさん狐(ぎつね)”ならぬ古狸(だぬき)が、御便殿広場の裏道、段原東浦への道路に死んでいたという話は確かに明治四十二、三年ごろのことで、当時この狸の記事が中国新聞にも大きく取り扱われたことを覚えている。

 市街の中央からこの御便殿あたりをみると大きな杉があった。この杉は根元深く土が掘りあげられて、セメント製の井戸の輪が、この木を保護していた。ちょうど、ゴッホの絵に見られるような糸杉そっくりの大杉であった。とくに右の方に太い赤い枝が見られた。

 当時の比治山風景をクローズアップするには、この糸杉は忘れられない植物であった。この広場にあった絵馬堂式大記念館は大正七年の大正天皇御即位大典を記念して建てられたもので、大鳥居は大正二年二月青山斎場殿に建てられたものを東京市から譲り受けて、御便殿風景を一段と立派にしたものである。

 ところが終戦後、この大鳥居の銅板は、下から手の届く限りはぎ取られて、痛ましくも鉄のツメでむしり取られた。原爆以上の害がこの大鳥居に襲いかかったワケで、古い広島人は今さらながら、あんなバカはアプレの仕業であると嘆いたものである。

 原爆といえば、あの日の朝、この御便殿の前で合掌したある人はピカッと光った途端に地上にパッタリと倒れたが、次の瞬間、御便殿はいかにと首をあげると、さすがの建物はペチャンコになっていたというが、モチロン絵馬式の記念館もボロボロに壊れていたことは、戦争と都市「広島」の写真にも克明に写されている。これが比治山御便殿最後の姿でもあったワケである。

 しかしこの広場での思い出は懐しい。昭和三、四年ごろのことである。例の詩人であり、異色の洋画家といわれた、山路商氏がサカンにこの広場で野球をやった。あの不自由な身体で大きな兵隊グツをはいて、彼は遊撃の難関を守っていた。飛んでくる球(モチ軟球であった)に横飛びに飛びつくや、右投げの速球で一塁に送って、パラパラと長髪を風になびかせていた。だれかが二塁にくるとばったのようにベースにタッチして「アウト、アウト」を絶叫した彼である。

 筆者としても野球の経験があるだけに、彼の物すごい運動神経にはあきれた(以下商サンといわせてもらう)。あれで真夜中に八丁堀歌舞伎座の前、仁丹塔の下でキャンバスと取組んでいた商サンとは、およそ別人のように思えた。

 当時の仲間にはもちろん「まんじゅう」こと永久博郎、甲陽撮影所に往った綱島辰雄、同じ油絵をものした檜山美雄、実本仙もいたようである。野球のウマかった商サン、もしも彼が生きていたなら必らずやカープファンになっていたことであろう。

(2016年10月9日中国新聞セレクト掲載)

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