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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十五)比治山のドン㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島鎮台のドンはいつごろ始められたのか、広島ものの資料を洗えば判(わか)ることであるが、ここではモッパラ比治山のドンについて書こう。

 ドンは十二時の時刻をドンという音響で知らせたもので、同時にこれが昼めしのきっかけとなっていた。筆者が七つ八つのころ、平塚の土手下の家から近所の人に連れられて、西の旧市場へ法事用の菓子かなんかを仕入れに往(い)ったとき、天満橋近くまで来ると「ドン」の音がして、筆者はワケもなく情けなくなって、大声で泣いたことを覚えている。

 それは家から遠いところへ来たことと、急に腹が減っての現象であったかも知れないが、この「ドン」は懐しい恨めしい音であった。

 そのころの広島のドンは、広島城のうち歩兵十一連隊に入る昔のヤグラ土手にあって、その前の蓮のあった掘に向って、ドンが打ち込まれたもので、その白煙は紙屋町入口から真正面に見られたものである。

 大砲は野砲級のもので、竹矢来(やらい)に囲まれた一角にデンとこの大砲がすえられていた。筆者が七十一連隊や十一連隊の二等兵時代も、この大時代の音を毎日聞かされたものである。

 毎年の天長節には百一発の皇礼砲がうたれたが、最初の一発は、このドンであった。今にして思えば、元幼年学校前に四台の野砲が東方へ向って列を連ねたもので、この壮観を見るために市民は西練兵場の一角に集まった。この皇礼砲風景は、当時の新聞にも取材されたものである。

 大正のなかばであったか、このドンの主は、竹矢来の中から姿を消して、いつの間にか比治山陸軍墓地の高台に移された。あのヤグラ土手も今は破壊され、その前の掘も埋められ、市民運動場裏の道にされてしまった。ここが鎮台以来、永年(ながねん)広島人に馴染(なじ)まれた「ドン」発生の土地であった。比治山に押しあげられたドンはその後、広島市役所勤務の阿部氏が最後まで、この大時代モノの面倒を見たとのことである。

 思うに西練兵場の掘に空砲を打っていた「ドン」は、陸軍の管轄であったらしい。それが、後にドンは広島市民のためだとばかりに、その管轄が陸軍から広島市へ移されたものらしい。そして野砲手であった阿部氏が、その経験を生かして「ドン」の係となり、雨の日も、雪の日も、この比治山に登って市民のために「ドン」を打ち出す役を果したワケで、あのころの広島市民は、ドンの大役を果した阿部氏のことは忘れてならないと思う。

(2016年10月23日中国新聞セレクト掲載)

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