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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十五)比治山のドン㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 比治山に登って広島市民のために「ドン」を打ち出す役を果した阿部氏は、後に市社会課長を勤められたと聞いている。そしてこの「ドン」は昭和三年四月、現在の市庁舎完成と同時に「サイレン」(あのころはブウといわれた)に切り替えられて、ドンの音は永久に聞くことはなかった。

 余談ながら、だれいうとなく原爆のことを「ピカドン」というようになったのは、広島市民が永年聞きなれた「ドン」のことが突差(とっさ)に思い出されて、「ピカドン」の言葉が出来たのかも知れない。

 この年の七月七日からFKは、時報を電波に乗せたことを付記しておく。また最近出版された「寄席への郷愁」に、東京の「ドン」の廃止は昭和四年とあるが、これは誤りであると新刊批評氏は指摘しているが、広島さえも前年の昭和三年に比治山の「ドン」に終止符を打っている。

 あれ以来二十五年、ドンの話もいまや昔話の一つである。そしてこの広島のドンには、落語ならぬ一つの落ちがある。比治山の別名は肘山とも言うが、この山に大砲がすえつけられてから、あの松林からスズメが姿を消したことは事実である。この話を聞いたある広島人は言う、スズメはヒジ鉄砲を食ったかも知れないが、広島人は毎日ヒジ大砲―ヒジドンをたのしんだ。

 比治山の頂上あたりでパッと白煙が立ちあがると、間もなくドンというにぶい音が聞かれた。ある東部の中学校の校務員さんは、あの白煙を見ると、直(す)ぐに食事の鐘をたたいて正確な時を知らせると同時に、少しでも早く生徒たちに弁当を食べさせてやりたいという親心を発揮したらしい。まさに奇篤な校務員さんから聞いた肘ドン異話である。

 大河路に接した比治山の中腹には、大きい岩があって、この上に天狗(てんぐ)さんとお姫さんの足跡がハッキリと刻まれている。近くのABCC(原爆傷害調査委員会)のことは知られていても、この岩の上にある足跡はあまり知られていない。まさに、この足跡は比治山の神秘であり、あの岩の上で遊ばれた昔の比治山は、よき所であった。

※記事を㊤㊦に分割して載せたため、挿絵は再掲載しています

(2016年10月30日中国新聞セレクト掲載)

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