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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十六)ボートレースの見られた平塚土手㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治末期、広島師範のボート部の活躍は全国的に有名なものであった。というのは、明治四十三年夏、琵琶湖での中学校ボートレースに連勝して一躍有名になって、京橋川で師範主催の短艇競漕(きょうそう)が盛大に行われるようになった。ちょうど柳橋を決勝点にして、スタートは大体、土手町の土手にあった石屋さんの前あたりが選ばれていた。

 時は春、レースのスタートを切るには満潮時が選ばれて、桃の花が咲いた土手町や、平塚町の堤や、柳橋の上には見物人が沢山(たくさん)つめかけた。橋の決勝点には一斗入りの空樽(からだる)が、折からのあげ潮にポチャリポチャリと浮いて、樽の上に立てられた赤旗や白旗が風にゆられているのも明治時代らしい広島の川風景であった。

 琵琶湖大会に優勝した優勝旗を飾った審判艇には、思いがけない赤ら顔の巨人が乗っていて、時々この優勝旗を打ち振って両岸のファンを喜ばせたものである。

 レースは七人乗りのボート二隻が千メートル近い直線コースを競争したもので、あまりスピードはなかったが、オールがパッと河(かわ)の水を切るのは、何ともいえぬ良い気持であった。そして審判艇、巨人の姿が、極めて印象的であった。この巨人はほかならぬ師範の体操の先生河津彦四郎氏で、首の太い、身長五尺八寸、体重二十四、五貫もあった立派な体格で、大正初期、芝浦で初めて行われた極東大会に出場して、砲丸投の記録をつくった人。広島人には懐かしい水泳の河津憲太郎君のお父さんで、あのころ広島八丁堀の埋立で興行した東京相撲の常陸山が、先生の立派な体格に惚(ほ)れ込んで、相撲取りにならないかと言った話も有名である。

 この京橋川のボートレースは、その後、宇品湾で行われるようになったが、ボートレースを見物するには平塚の土手は格好な場所で、土手下の〝がんす横丁〟のおかみさんや子供たちが押しかけたものである。

 この平塚町の土手は“茶屋の土手”と言われ、京橋川の右岸、柳橋西詰から鶴見橋の辺りまでが、昔風の茶屋の土井と呼ばれたところで、茶屋の土井の起因はよく判(わか)らない。はるかに比治山を見るこの土手の散歩道では、あのころ明笛(みんてき)が流行して「紅顔可れんの美少年が」と高等商船の歌がサカンにうたわれたものである。

(2016年11月6日中国新聞セレクト掲載)

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