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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十六)ボートレースの見られた平塚土手㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 平塚町の土手の大雁木(がんぎ)と言うところには、鉄棒がこしらえられて、学校帰りの白線帽の明道中学の生徒がこの鉄棒で妙技を見せて辺りの子供たちを喜こばせたもので、演技最中この鉄棒が折れてその生徒は大ケガをして、ついには鉄棒は姿を消した。

 あのごろ誰が建てたのか、ちょっとした広場にはこの種の鉄棒がよく見られたもので、運動場らしいもののなかった広島にはちょっとした広場が利用されていたことを思い出す。そして、この京橋川には毎年溺死人が出た。広島と七つの川の宿命というのか、特に夏時分には溺死が多かった。

 ある夏の夜、S学校の生徒が、近所の小父(おじ)さんと宇品沖へ舟で釣りに行っての帰り、平塚の大雁木に舟をつないだはずが、その生徒は暗闇の川中に転げ落ちた。これに気づいた近所の人は「徳一っあんが川に落ちた」と大騒ぎになり、平塚町界隈(かいわい)の人たちは弓張提燈(ちょうちん)を高く掲げて、川の真中に舟をこぎ出した。

 間もなく柳橋近くの土手に「徳一やーい、徳一やーい」という老婦人の泣き声が聞えた。近所の人たちはこの老婦人をしっかり抱いて慰めていた。この方は自分の腕一つで、孫の徳一さんをここまで育てて来ただけに、どうにもあきらめきれないと、夜遅くまで泣き声はつづいた。

 ようやく十二時近く、徳一さんの死骸がみつかった。この死骸に取りすがって泣く老婦人の声が、いまでも耳の底に残っているような気がする。

 こうした広島の川の悲劇は毎年夏になると繰り返された。桃の花の咲いた時分に行われたボートレースのコースでは、あの夏も、またその翌る年の夏も、水の悲劇があとを断たなかった。

 また、平塚町の土手は夕涼みの子供たちでにぎわった。土手川の川べりにある数寄をこらした家からは喜多流の謡曲が川風に乗って流れてくる。時には妙(たえ)なる琴の音も同じ川風に乗って流れたもので、浴衣に着替えた老人が、長くもない家の廊下を散歩している姿がみられたのも、あのころの広島らしい和やかな風景であった。

(2016年11月13日中国新聞セレクト掲載)

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