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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十七)柳橋界隈(かいわい)(その1)

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 柳橋が架けられたのは明治十一年五月で、橋の長さは七十一間、幅二間三分と記録されている。十数年前、橋の東側にあたる平塚土手近くの川が埋立てられて、長さが幾分短くなったような感がする。

 この橋が出来てからは自然と人や車の往来が激しくなり、商店が軒を並べた。もともと柳橋という名称は、橋の西詰をおりた下柳町の柳を冠したものである。

 そのころ、町内のあちこちには柳が植えられ、二十年前までは上柳町、下柳町ともに、西側のみぞのほとりには大きな柳がしだれていた。昔は西の元柳町に対して東柳町といわれ、明治十五年から国道を境に、上柳町、下柳町と二つの町に分れた。

 この界わいに限らず、当時のヒロシマの街には多数の柳の木が植えられていたもので、この柳があのころの和やかな広島のシンボルであった。

 俳聖正岡子規が明治二十八年三月五日、宇品港で御用船を待っているうちに、広島市内のあちこちを訪ねて「広島は柳の多きところかな」の句をものしたのも、どうやら両柳町あたりの印象をうたったものらしい。柳橋の西詰にも太い一本の柳があったが、いつの間にか姿を消した(現在鶴見橋の東詰にある太い柳は、原爆にもめげず、柳独特の妖精を取りもどしているが、この風情をそのまま、いまの柳橋の西詰にそれを移したと思えば間違いない)。

 また、西詰から平塚土手に沿って数軒の竹屋があって、枝をおろした太竹、小竹が商品として並べられたもので、竹馬をつくるためにこの橋詰の竹屋まで子供連中で押しかけた。

 竹屋といえば、いまの南竹屋町が切支丹新開の竹屋村といわれたころ、ここに竹を商った竹屋某が住んでいて、その名前がそのまま所の名になったものと聞いている。そして、この竹屋の枝を落した竹がはるか林立している銅版の広島風景が、三原市在住の某氏の手もとに保存されている。私たちが子供のころに見かけた柳橋西詰土手の竹屋風景そのままが、この銅版画にのっている。

 これは広島の鳥かん図で、己斐あたりから東をながめての描写で、広島くどき広島八景にうたわれているがらがら橋近くにあった三本松もハッキリと描かれている。広島城を中心にした城下町も克明に写され、ヤグラ下一円の川添いのヤグラ風景も珍らしい。はるかの竹屋村の土手には、多数の枝をおろした竹が林立して異風景をものにし、芳山という広島絵師の写実感が、そのまま現れているように思われた。そのころ竹屋村と江波の皿山にあった、かまどから煙が立ちのぼっている和やかさは、そのかみの夢のような広島風景である。ちなみにこの芳山の絵は文化年間の作である。

 まさに、この柳橋西詰の竹屋風景は芳山の竹屋描写を拡大したものであった。

(2016年11月20日中国新聞セレクト掲載)

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