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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十八)柳橋界隈(かいわい)(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 柳橋の西詰の橋名板は原爆以前のままで、橋の名前は必ず一方は漢字で、花崗(かこう)岩に刻まれて、反対側のものは平仮名で刻まれているのには、何か理由らしいものがあるようである。東詰の橋名板は、木製であるのも痛ましく、また諸車通行止の制札が立てられているのも、うらぶれた柳橋の運命を物語っているようだ。

 それにつけてもこの界隈の全盛時代は、明治末期から大正初期であった。明神浜の明神座が出現したのは明治十四年で、あの古風のヤグラから毎朝ヤグラだいこが鳴り渡って、この界隈から平塚土手下一円の人心を浮き立たせたもので、京橋川の川面を渡った響きは稲荷町あたりでも聞かれた。

 このヤグラのあった明神座のことはさておいて、この柳橋西詰から下柳町通りへの道路にはかなり急な坂があって、雨あがりにはいいようもない泥んこになり、登りくだりの車はその度毎(たびごと)に難渋の個所であった。

 ところがこの泥んこの坂には、色とりどりの大幟(のぼり)が立てられて、行き交う人たちの気持ちをほぐしていた。それは、うかれ節の道場と言われた朝日座に乗込んだ芸人たちの名前が染められた幟であった。

 この朝日座は明治中期に柳橋通りの左側の空地に建てられ、西部では中島の鶴の席、胡子座、大黒座、小網町の新明座、堺町の栄座などと、寄席華やかなりしころ、モッパラうかれ節(浪花節)の定席として、東部ファンの人気を集めた小屋であった。

 とくに、人力車稼業の人たちからは、絶対な支持を受けた。芸未熟な新人が舞台に出ると、必ずや野次(やじ)り倒された。それだけこの小屋には、芸には詳しいお客の気合がうかがえた。この気風はここ十数年前まで、広島の大劇場でもしばしば見られた光景で、舞台中央に立往生させられた芸人はコソコソと舞台の袖に引下るか、引幕で姿を消されるという始末であった。

 「やってやった」という野次の歓声に、暫(しばら)くは場内騒ゼンたるものがあって、これをたのしみに行くというファンも相当にあった。玄人筋からは「広島の朝日座ではドヂは踏めない。生命がけの道場だ」と神聖視された小屋であった。

 この点、芸達者で盲目であった浪花家小虎丸はなかなかの人気で、辻ビラにはフロック姿の小虎丸が、シルクハットを右手に、左手には白手袋を持っての写真も刷り込んであったことを思い出す。

(2016年11月27日中国新聞セレクト掲載)

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