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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十八)柳橋界隈(かいわい)(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 あのころ、広島くらい浪花節のサカンであったところもあるまい。百メートル道路の近くある天神町妙法寺には、うかれ節の元祖といわれる京山恭安斎の墓も残されているほどで、尾道出身といわれる初代京山小円も広島の小屋で名を売り出し、桃中軒雲右衛門も新明座で広島のファンをうならせ、自分の芸に自信をつけて大阪入りをしたものである。

 浪花節の聖地ヒロシマというにはあまりにも大げさであるが、その伝統というのか今日でも、大看板の浪花節語りを聴くため、恐妻の目を盗んでも仕事を休んで出かけるファンもある。

 「召集令」や「生きる悲哀」で一世を風ビした京山若丸もしばしば朝日座の舞台を勤めたもので、現在、吹田市(大阪府)で七十六歳の老齢で余生を送っているが、同師の三十九人目の門弟、広島市出身の京山呑風も全盛時代をこの定席で花を咲かせた。

 本名井上正義の呑風は、広島明道中学の二年生からこの道に入り、豪放な語り口が受けて「大西郷」「近藤勇」は彼の読物であった(彼の弟子には広島県出身の松平国十郎がいる)。

 最近若丸師から、呑風は終戦の年の八月に満州(現中国東北部)慰問の帰途、船中で亡くなり、広島の留守宅にいた妻女と姉は、原爆に倒れて一家全滅でしたという便りをもらったが、ここにも広島の悲劇があった。

 朝日座は収容人員約四百名で、柳橋の西だんだん坂、右側にあってその入口には、黒格子で造られた門があった。その入口の屋根から突き出された竹ザオの先には、石油ランプを入れた大提燈(ちょうちん)があって、その上には竹皮製の雨傘がかぶせてあるのも面白い風景であった。

 入口の木戸には大型の木戸札が積みあげられて、この札を貰(もら)って小屋に入った。あの黒格子の入口両側には、浪(なみ)の花(塩)が積みあげられていたのを思い出す(千客万来のおまじないである)。

 東部在住のある通人の話によると、当時の中国新聞社長山本三朗氏も浪曲ファンの一人で、時折この小屋で血色のよい顔を見かけたと言う。とりわけ、閉場後の客に混って、人力車上の社長の和服姿が極めて印象的であったとも言っているが、これは明治末期から大正初期にかけての思い出話である。

(2016年12月4日中国新聞セレクト掲載)

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