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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (十九)柳橋界隈(かいわい)(その3)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 柳橋東詰を登って橋に二、三歩かかって思わず右側を振り返る。そこで思いがけなく手入れのよくほどこされた松が目につく。この松は五葉松ではなく、中央の幹から二段ぐらい横に長く枝を張った二間(約三・六メートル)ばかりのもので、これが白壁の倉を背景にしているあたり、珍しい松であったことを思い出す。

 この橋の東詰には赤ペンキ塗りの二階造洋館の写真屋があって、土手町土手にあった巡査派出所の黒塗りの火の見ヤグラとともに、その色彩の対照が面白かった。はるか平塚町土手あたりからこの柳橋東詰を見ていると、一幅の絵であった。

 とくに満潮時に浮いたような柳橋の姿と、高くそびえていた木製の火の見ヤグラ、それに箱そのままが赤色に塗られた洋館とのコントラストは、絵心のない者にも画題になるように思われた。空にはトビも飛んでいたし、カモメも京橋川に浮いていた。

 火の見ヤグラを中心にしたような土手町は、みるからに小ギレイな町であった。川添いにならんだ家も、それぞれに趣きのあった家が多く、物静かな土手町であった。この土手に植えられた桜と萩は、その季節ごとに市民を喜こばせた。比治山御便殿の桜とも好一対の風景をみせたもので、萩の咲いた風情にも、なかなかすて難いものがあった。

 もともとこの土手町は、土手のある町として名付けられたものであるが、初めは東土手町と言われた。その後何度も火災にかかって、隣接の比治山町や、松川町、東大工町とともに、稲荷社に因(ちな)んだ稲荷町と改称したものの、さらに独立して現在の土手のあるところをそのまま土手町と改めた。

 また、松川町につづく金屋町は茅屋(かいや)町と言われたが、同じ火災の被害で、地元町民からその名をきらわれて、寛政九(一七九七)年に現在の金屋町に改名したとのことである。

 この付近の人たちは、橋が架けられた明治十一(一八七八)年以来、この柳橋からの恩恵を受けているワケである。

 再び橋に近い土手町にもどるが、この土手町の土手には、広島のシンボルであった柳が植えられてあった。例の俳聖子規もこの土手町を散歩して「上下に道二つある柳かな」と詠んでいるように、土手町一円には柳が植えられていたことが立証される。

 本来ならば、広島を訪ねた子規を偲(しの)んで、この土手の一角にこの句碑ぐらいは建ててもよい土手町であった(もっとも宇品町のカブリツキには、子規を偲んで「行かば我筆の花散る処まで」の句碑が忘れられたように取り残されていることを付記する)。

(2016年12月11日中国新聞セレクト掲載)

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