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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十)京橋界隈(かいわい)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 京橋は長さ三十六間(約六十五メートル)、巾三間五分(約六・三メートル)という記録が残っている。毛利輝元時代からの由緒ある橋で、旧京口御門から東へ一本筋の道路にあるところから、京橋と名づけられ、この橋を渡って猿猴橋までが、橋の名に因(ちな)んで京橋町と言われて来た。

 筆者の大正二、三年ごろの記憶には、この京橋西詰を左に入るところに、徳利(とっくり)小路があったと想(おも)う。丁度(ちょうど)徳利の形をした小路で、入口こそ小さかったが奥は広い埋立地であった。

 夏にはこのあたりに、納涼客目当ての氷店が出て、広場には盆踊りのヤグラが出来て、これを囲んだ男女が夜更けるまで楽しい一夜を過した。昼はこの大雁木(がんぎ)で主馬流の達人八幡先生が、少年たちを集めて水泳道場を開いたこともある。

 後にこの埋立地には立派な別荘が建てられたが、現在では原爆で昔の面影とてはない。

 徳利小路という名前は、その頃の広島人には馴染(なじ)まれたもので、この小路から国道を渡ると、幅一間ぐらいの小路があって、その入口には、明神座の暗灯が頭の上につるされていた。この細い小路を抜けると、かき船のある明神浜に出て、更(さら)に右に曲った石段を下りると、その一角には茶色の定式幕で包まれたヤグラのある二階建の明神座―。これが西の小網町寿座の前身笹置座、猫屋町にあった新地座と共に、広島の三座と言われた由緒ある芝居小屋であった。

 あの頃のヤグラ太鼓の音は耳の底に残っているようで、ターンターンという響が京橋川の川面を伝わる風情は、城下町広島の気分的アクセサリーであったといえよう。

 この芝居小屋はもともと猿猴川ぞいの東大須賀村いろは松原の西北にあったものを、明治十四年に明神浜に移した。

(2016年12月25日中国新聞セレクト掲載)

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