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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十)京橋界隈(かいわい)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治十四年に明神浜に移った芝居小屋だが、八年の広島県警察令の規定で、東は猿猴川以東には劇場は許可にならなかった。そこで一応、明神社の祭り道具を保存する倉庫として、改めて許可の申請をしているうちに、時の県令千田貞暁氏の英断で、前の警察令の規定にある猿猴川以東の項が柳町筋以東と改められて、ようやくに許可を得て、この小屋を明神座と名付けたものであった。

 そのため明治十七年に、京橋町の松岡忠助、明藤次郎、菅野甚七の三氏が三友社という組織で、この劇場を共同経営したもので、三十一年には改築、増築のコースをたどって立派な定小屋に仕上げられた。その大きさは間口十三(二十三・六メートル)、奥行二十間(三十六・三メートル)で収容定員は千五百人であった。

 その後、劇場前の木谷九兵衛氏が経営に参加し、さらに九兵衛氏の長男木谷吉二郎氏がこれを引き継いで新知識の運営を行なったが、昭和初期であったか開場なかばに満員客の重量にたえかねて、二階が抜け落ち、ツイに広島名物と言われた明神座も復元の機会を得ず数々の思い出を秘めてその座名を消した。のちしばらくは明神市場として再生したように想(おも)う。

 座主の木谷吉二郎氏は、のちに新天地泰平館での大津賀八郎の青い鳥劇団の面倒をみたが、まもなく興行界を引退した。同氏もあの日の原爆で明神座跡の自宅で亡くなった。

 思い出の明神座には次のような挿話がある。大正七、八年頃、あのヤグラ太鼓を叩(たた)いたのは小田の栄さんで、大太鼓に締太鼓を結び、すり鐘をたたいた狂言触れもなかなかの上手であった。また、徳利小路前にあった暗灯と同じものが、下柳町や幟町の弓矢小路へ抜ける道に釣りあげられて、カンテラろうそくの灯が大時代調の光を投げかけていた。

 この小屋で今でも語り草になっているのは、実物の蛇を使った林幸太郎一派の執念の蛇劇である。舞台一パイの滝に打たれながら、首に巻いた蛇を落す勧善懲悪で三ケ月も続演された。

 五代目からその名をもらった菊五郎一座の水芸芝居、阿波人形もよく来たし、伊藤痴遊や本荘幽蘭もこの舞台でコップの水を飲んでいた。

(2017年1月8日中国新聞セレクト掲載)

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