×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十一)京橋町を馬で流した角藤定憲の話㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明神座に因(ちな)んでの挿話には、改良演劇の元祖と言われた角藤(すどう)定憲一座が広島に現れた話があった。もちろん明治二十七年六月、角藤定憲が東京吾妻座で「快男子」を上演し、仁礼半九郎に扮(ふん)して好評を博した以前の話である。

 岡山出身の彼は、明治二十年に京都府巡査を拝命したが、上官とのトラブルから大阪東雲新聞の記者となり、その後、旧演劇のカラを破る新演劇の創造と大衆への政治鼓吹を思い立って「大日本壮士改良演劇会」を組織する。二十一年十二月、大阪新町座での旗あげに自作の「剛胆の書生」を上演し、翌年二月の郷里岡山を振り出しに、四国の高松、丸亀を回り、間もなく海路広島に渡ったのは新緑の五月であった。

 角藤以下、森健吉、笠井栄次郎ら一座のこらず黒の紋服に同じ羽織を着て、白縮緬(ちりめん)の兵児(へこ)帯、黒足袋に白太鼻緒の麻裏草履で、それぞれ白布の後鉢巻という甲斐々々(かいがい)しいいでたちで、明神座に乗込んで来た。

 もちろん人力車での乗込みであったが、座長の角藤は栗毛の馬に乗って行列の先頭を切った。しかも彼は背に大提灯(ぢょうちん)を差し、昼間というのに灯をつけていたとのことで、京橋町の一角で自由党壮士特有の政治演説をぶったために、京橋分署の巡査から注意をうけた。

 人や車の往来のはげしい京橋町筋にはすでに円太郎馬車も疾走していただけに、なかなかに彼らの乗込みも賑(にぎ)わった。当時の光景を目撃した段原町居住の若山シナさん(今年八十三歳)の話によると、角藤らはいずれも二十三、四歳のはつらつたる若者揃(ぞろ)いで、白ハチ巻姿の印象はいまだに忘れられないといっている(広島の乗合馬車は明治二十年七月から円太郎ラッパを吹き鳴らして愛宕町から己斐の間を往復していた)。

 なお角藤が背に差していた提灯に、真昼というのに何(ど)うして灯がつけてあったか、今もってそのワケが思い出せないと、若山さんはいっていた。

(2017年1月15日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ