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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十一)京橋町を馬で流した角藤定憲の話㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 立派な花道や回り舞台のあった明神座では、もちろん「剛胆の書生」「忍耐の書生、貞操の佳人」「吉備の夜桜」などが上演されたことであろうが、その評判については何んの記録もない。角藤定憲一座は広島の打揚げ後は、萩、馬関(下関)、博多、熊本と巡業したが、ツイに熊本でトヤに着いた(不入りなどでその地をたてず宿ごもりすること)。のち明神座で再演し、次いで一座は福山で解散の浮き目にあった。

 しかし高松で再編成の旗挙げをして、岡山、玉島を打って上阪、のちに角藤定憲は東京での成功後、神戸大黒座で肺炎に倒れた。行年四十二歳であった。新派と広島を語るには、若き日の角藤が馬上、豊かに、京橋町で街頭演説をぶったことを忘れてはならない。

 また、明神座来演で人気のあった役者には歌舞伎の梅車(三枡大五郎)、市川いろは、市川雛太郎、松本田三郎(大阪役者)などがある。年代はよく判(わか)らないが全国的にコレラが流行した年、市川いろはは、コレラにかかって四日目には亡くなった。このコレラのため芝居も打てず、雛太郎、田三郎の一座は明神座の楽屋で一年間もトヤに着いた。そこで芝居の打てぬ役者たちはカンザシをつくって、生活費をかせぐために平田屋町界隈(かいわい)まで売り歩いたとのことである。

 なお雛太郎は盲目の女形で、十数年前、新天座で人気を博した盲目役者林長之助そっくりの役者であった。

 うかれ節芝居の市川蝦三郎や市川三十郎も、この小屋で半年近くも長興行をやった。ついでながら、角藤定憲の流れをくむ新派の井上正夫も、広島を中心に旅をかせいだ時代もあり、雛妓(すうぎ)ぼんたとの初恋物語もよく知られている。

 昭和初期、花柳章太郎が広島寿楼の菊枝を「黒いドレスの女」として芸談集「雪下駄(げた)」に書いているのもヒロシマの話で、改良演劇以来の長老小織桂一郎も西地方(にしじかた)町(現広島市中区土橋町、河原町)とは因縁の深い役者であった。

(2017年1月22日中国新聞セレクト掲載)

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