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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (二十三)カラコを買いにござった㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島の童唄(わらべうた)にはまた、人当ての遊びもあった。

 和子ちゃんのとなりに、
 ひこベイちゃんがいる、
 大きに違い、また入れ替り

 という歌が、暮れ方のお寺の境内でもよく聞かれた。
 手まり唄には、

 うちの隣りのもうやん(子守 の意)が、
 芋をやくやく手をやいて、
 いんで(帰っての意)、
 おかみさんにおこられた

 四十九日がすんだなら、
 お茶とお菓子で詣(まい)りましょう

 というのがあって、あのころの「がんす横丁」で遊んでいた女の子たちの姿も思い出される。

 当時の広島の街角でみかけた風物詩になるものには、小太鼓を鳴らして来た「おきびちゃん」が一番人気があった。削りあめ屋、火に温めたあめを吹き曲げて、うぐいすをこしらえ、それに赤や青の色を無雑作(むぞうさ)にパッパッと塗ったあめ細工屋さん、色とりどりの新粉で人形や狸(たぬき)、手の込んだおいらん人形をこしらえた新粉細工屋さん…。街の子供たちを喜ばせた芸術家であり、手品師でもあった。

 八丁堀の埋立地でみた幕府時代の生残りと思われる砂絵師の砂芸術も忘れられない。ニッポンの錦絵に関心を持ったあのころの外国の洋画家たちが、この砂絵芸術を見たならどのような印象記を書いたであろうかと、キャンバス代りに使われた埋立地、京口門あたりの白い砂の色をいまでも思い浮かべる。城下町広島に見られた最後の砂風景ではないかと思う。

 毎月一日、十五日の朝は、紅白のおそなえモチを売りに来たモチ屋さんのチリン、チリンといった風鈴も懐しい。あんころモチや赤や緑のいがモチ、さくらモチ、赤飯などがガラス張りの容器に行儀よく並んでいたのも、そのころのことである。

 ニブイ締太鼓を叩(たた)いてきたパン屋、玄米パンのほやほや、長い大きな厨子(ずし)を背にしていた大時代な淡島さん(淡島信仰の願人)、黒箱車を引いた牛乳屋さん、馬に引かせた蒸気装置のあった牛乳配達車、ガスマントル(ガス灯の発光体)を取り替える車を引いた松風というお角力(すもう)さん、人気者のおでん屋さん(小網町にいた松田常一さんのこと、別稿にゆずる)たちの話は、今でも走馬灯のように繰り返されている。

 街角といえばあのころ、ほうそう(天然痘)除けのおまじないに、さん俵の上に赤紙が敷かれ、かわらけには、なますと赤飯、そしてお灯明があげられていた小景を思い出す。

(2017年2月19日中国新聞セレクト掲載)

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