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連載・特集

戦後76年 高田開拓団の記憶 <上> 二つの国

 現在の安芸高田市から満州(現中国東北部)に渡った高田開拓団は1945年8月15日の終戦後、集団自決や家族離散といった過酷な運命を強いられた。誤った国策に巻き込まれた人々が長く直面した苦境。戦後76年。薄れていく記憶を次世代に引き継ぐ営みを追った。(石川昌義)

異郷の地で過酷な半生

 ≪花摘む野辺に 陽(ひ)は落ちて みんなで肩を くみながら 歌をうたった 帰り道≫

 戦前からの流行歌手霧島昇が40年に発表したヒット曲「誰か故郷を思わざる」の一節だ。「私、この歌、大好き」。高田開拓団の数少ない生存者、宮部玲子さん(87)=広島市西区=は、歌詞を書き写したノートを見せてくれた。筆圧の強い文字が、けい線に沿って丁寧に並ぶ。「日本語はカラオケで覚えたよ」

孤児として40年

 45年4月、一家9人で開拓団に加わり、吉田町から吉林省徳恵県(当時)に移住した。4カ月後、日本は戦争に敗れる。かいらい国家の満州国を通じた日本の圧政への不満を爆発させた中国人や、終戦間際に満州へ攻め込んだソ連軍によって、開拓団は大混乱に陥った。追い詰められ、集団自決する人もいた。

 逃避行のさなか、宮部さん一家は飢餓や感染症に直面する。両親は亡くなり、きょうだいも散り散りになった。中国人一家に引き取られた宮部さんは、残留孤児として中国・吉林省で40年以上の時間を過ごすことになる。

 同じ開拓団出身の残留孤児の助言で日本への帰国を申請した宮部さんは、90年に永住帰国した。残留孤児が原告になった国家賠償請求訴訟に加わり、日本でのつつましい後半生は支援者が写真集に記録した。

 中国でもうけた6人の子どもを広島市に呼び寄せ、孫とひ孫を加えると広島で暮らす一族は50人を超える。「今が一番幸せ」。中国・四国中国帰国者支援・交流センター(南区)が2018年に制作したDVDの収録で、宮部さんが繰り返した言葉は、人身売買や養家での虐待を経験した過酷な戦後史の裏返しでもある。

 宮部さんは、日本に帰国がかなった当時の情景を鮮明に覚えている。「吉田の小学校の同級生が涙を流して喜んでくれた。『玲子ちゃん、玲子ちゃん』って」。幼少期の記憶は今も色あせない。「大きな柿の木があった。弟に実をもいでやった」「サクラの花がきれいだった。満開の木の下で家族写真を撮った」…。思い出があふれ出した。

証言映像を上映

 吉田町に身寄りはないが、家族の名前を刻んだ墓を毎年夏に訪れる。証言映像は7月下旬、故郷の安芸高田市吉田町で同センターなどが初めて開いた「中国残留日本人の体験を聞く会」で上映された。

 昭和初期から終戦までの間、県内からは約1万1千人が満州に渡った。現地の土地や建物は中国人から接収した。県満州開拓史(89年刊)の高田開拓団の項は、「荒地を開墾するより直(す)ぐ収穫のある既墾地の広大な土地が与えられる」と喜んだ元団員の証言を記録する。終戦直後に暴徒と化した中国人の怒りの背景には、開拓団が帯びた侵略性があった。

 「戦争は大嫌い。偉い人は誰も苦労しない。苦労するのはみんな、私たち」。1人で暮らす市営住宅の一室で、日中両国の戦後を生きた宮部さんはしみじみと語る。「子どもや孫の世代に、自分のことを教えてあげたいんですよ」。身の回りを世話する長女栄子さん(57)=西区=が、老いを深める親の心情を代弁した。

(2021年10月17日朝刊掲載)

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