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連載・特集

[ヒロシマの空白 街並み再現] 逓信局 青春の日々 沼田鈴子さんのおい良平さん写真保管

中庭のアオギリ 被爆後の支え

 原爆で左足を失い、被爆アオギリの下で戦争体験や命の尊さを語り続けた沼田鈴子さんが87歳で他界してから、今年で10年になる。遺品を受け継ぐおいの良平さん(69)=東区=が、沼田さんの勤務先だった広島逓信局(現日本郵便中国支社、中区東白島町)の写真を保管している。沼田さんの青春時代と、原爆で焼失する前の庁舎の姿を今に伝える。(桑島美帆)

 「一億一心」「百億貯蓄」―。標語が掲げられた逓信局の玄関前に、正装した男性たちが並ぶ。日中戦争が始まった1937年以降、政府は戦費調達のため国民に貯蓄を奨励した。目標額を100億円に設定した39年ごろの撮影とみられる。

 「簡易保険」の横断幕を付けた米国製のオープンカーに乗った局員が、得意満面の表情を見せる一枚も。原爆資料館によると、いずれの写真もこれまで確認されていない。原爆が投下される半年前の沼田さんと同僚たちの記念写真もある。

 広島逓信局は33年3月に建てられた。緩やかなL字形の鉄筋4階建て。良平さんの祖父で沼田さんの父秀玉さん(56年に70歳で死去)は、29~42年に業界紙「逓信萬(まん)報」を発行し、廃刊後は同局で働いた。沼田さんと妹も勤めていた。

 45年8月6日、爆心地から約1・3キロで建物内部の大半を焼失。約80人が亡くなったとされる。4階にいた沼田さんはがれきの下敷きになり、左足首をけがした。傷口が腐り始めていた10日朝、麻酔なしで太ももをのこぎりで切断した。当時22歳。婚約者が戦地で亡くなったことも知らされた。

 絶望し、自殺も考えた沼田さんを勇気づけたのが、逓信局の中庭で被爆後に新芽を付けたアオギリだったという。「死んだらいけない。生きるんだよ、と言ってくれた気がした」。生前、そう語っていた。

 安田女子短大で家庭科の講師として働いた。義足を隠し、被爆体験も語らずにいたが、57歳だった81年に転機が訪れる。米戦略爆撃調査団が撮影した原爆記録フィルムを市民の手で買い戻す草の根運動「10フィート運動」の試写会で、自身の姿が映し出された。46年春に逓信病院の屋上で、米国人に求められて左足の傷痕をカメラに向けた記憶がよみがえった。苦しみながら、証言者として生きる契機となった。

 それから約30年間、晩年まで被爆アオギリの下で子どもたちに語った。2世の苗木を各地に贈る活動は、市や民間団体が今も続けている。欧州やアジアの国々を訪れ、日本の戦争加害を記憶する人たちと向き合い続けたことでも知られる。

 「叔母が家族の前で、被爆体験や証言活動について語ることはありませんでした」と良平さん。遺品の重みを感じ、写真の整理とデジタル化を始めた。「核兵器廃絶を願い、戦争は絶対あっちゃいけんと、平和の種をまき続けた鈴子の思いを、後世へ残したい」

(2021年10月18日朝刊掲載)

動画は以下です。

被爆アオギリの下で戦争体験を語る晩年の沼田鈴子さん

被爆証言を始めて間もないころの沼田鈴子さん

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