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連載・特集

戦後76年 高田開拓団の記憶 <下> ともに生きる

帰国者支援 思いを継ぐ

 戦時中の国策だった満蒙(まんもう)開拓は、戦後間もなくの満州(現中国東北部)での逃避行や、中国残留孤児といった悲劇を生んだ。その歴史を語り継ぐ集会が7月25日、安芸高田市吉田町であった。準備に携わった福岡奈織さん(28)=向原町長田=は広島市安芸区出身。学生時代に被爆者の記憶継承や平和構築をテーマに活動した縁で事務方を引き受けた。

 Iターン就農した夫とともに、福岡さんが向原町に移住したのは2020年春。昨年暮れ、地元住民が集まった会合で、酒に酔った高齢の男性がおえつを漏らした。男性は満州からの引き揚げ経験者だった。家族を亡くした後悔と悲しみを吐露する男性。福岡さんは「今まで頭の中で理解していた歴史上の事実が『遠い話』とは思えなくなった」と振り返る。

差別受け苦しむ

 中国・四国中国帰国者支援・交流センター(南区)などが安芸高田市では初めて開いた「中国残留日本人の体験を聞く会」。永住帰国し、広島市内で暮らす中国残留孤児や、その子どもの証言に約40人が耳を傾けた。

 日本語の不自由さや習慣の違いから差別を受け、苦しい戦後を生き抜いた人々が、自らの歩みを語った。安芸高田市で暮らす外国人の支援に取り組む地域おこし協力隊員でもある福岡さんは「国と国のはざまで生きる人たちを温かく受け入れない狭量な社会は、今も変わっていないのではないか」と受け止めた。

 現在の安芸高田市から満州に渡った高田開拓団の元団員で県満州開拓史(1989年刊行)の編集に携わった宮地文雄さん(12年に93歳で死去)と妻トメエさん(13年に88歳で死去)の長女有間昌子さん(74)=吉田町吉田=は、「体験を聞く会」の会場にいた。

 その日、帰国後の広島での暮らしについて証言した残留孤児2世の国広洪恵生(こうえい)さん(50)=西区=は、宮地さん夫妻を「おじさん、おばさん」と慕う。母親が現在の広島市佐伯区湯来町から満州に渡った佐伯開拓団の一員だった国広さんは、帰国直後の仮住まいや、仕事の仲介を受けた恩を胸に刻む。有間さんは「この日は母の命日。不思議な縁で会わせてくれた」と感謝する。

追悼の碑に決意

 中国帰国者の支援に力を尽くした宮地さん夫妻は、福岡さんが目指す「多文化共生」の先駆者とも言える。有間さんは、吉田町中心部を見下ろす郡山公園にある「満洲(まんしゅう)高田開拓団 殉難之碑」に福岡さんを誘った。

 70年に建てられた碑は、開拓団の苦難の歴史を刻む。生存者や遺族が営んでいた追悼行事は96年を最後に途絶えた。この日、2人は碑の周囲を掃除し、線香を手向けた。

 「このままでは、歴史に埋もれてしまうと思っていたけれど、若い人が関心を持ってくれてうれしい」と有間さん。福岡さんは「歴史を受け止め、『なぜ、私たちの社会は変われないのか』『どうすれば変えられるのか』を問い続けたい」と決意を新たにした。(石川昌義)

(2021年10月18日朝刊掲載)

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