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連載・特集

ヒロシマと建築 岡河貢 <4> 白井晟一「原爆堂計画」

核廃絶へ哲学と魂込め

 広島への原爆投下から9年後の1954年、米軍が太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行った。この時、静岡県焼津の漁船第五福竜丸が被曝(ひばく)した。核爆弾のさらなる開発に衝撃を受けた建築家白井晟一(せいいち)(1905~83年)は「原爆堂計画」と名付けた核兵器の時代そのものを人類に問う建築を発表した。

 誰に依頼されたのでもない。核兵器は戦争抑止と人類滅亡のもろ刃の剣であるのか、核兵器の存在そのものを原爆堂は人類に問い掛け廃絶を訴えている。核爆弾の爆発を黒と灰色の御影石による造形のピュリティ(純粋)として永久に凍結させ、核兵器の墓碑のようなこの建築造形もまた、建築家の核兵器廃絶への哲学と魂の造形である。

 白井は戦前の京都で戸坂潤や深田康算などの哲学者たちの薫陶を受け、建築家となるためにその基礎として哲学を学ぶことを勧められた。そしてドイツに留学し、ベルリン大で哲学を学んだ。哲学は人間の存在自体を問う学問である。そして人間が存在する真理、善、美を追求する。核兵器は人間の存在を大量に無差別に破壊する。

 原爆堂建設は実現されていないが、水面から立ち上がった水爆実験のきのこ雲が永遠に停止状態となったような造形。堂内の空間は、核兵器への建築家の思想が表現されているように思う。訪れる人はエントランスの建物から地下へ降り、薄く水の張られた水盤の地下通路を通って入る。これは疑似的な死の体験をすることではなかろうか。

 らせん階段を上がって主室に着くと、小さな開口部から外が見える。あの世からこの世を小さな窓を通して垣間見る。そして、階段を下りて水面の下の通路を通る。これは、この世に再び生まれる疑似体験ではないか。そして、エントランスホールに戻ってこの世に再び出た時、人々は必ずや、この世の生のなかに核兵器の廃絶を誓う。

 言葉を超えた核兵器廃絶の思いが込められているように私には思える。いつの日か、原爆堂の広島での実現を夢見ている。(広島大大学院准教授)

(2015年12月11日中国新聞セレクト掲載)

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